第一部          かくせい   醒
    
   第一章   転校生



   1・嵐の予感



「おはよう」

「おはよ〜」
 朝の挨拶が交わる中野駅。近隣には多くの学び舎が立ち並び、登下校時間ともなると駅周辺は学生達でにぎわう。

 水澤(みずさわ)真琴( まこと)は改札を出て軽くため息をついた。155センチの細身の身体を紺色のブレザーに包み、肩甲骨まで伸びたさらさらのストレートヘアが風に揺れる。今時珍しく、スカートは膝丈、白のソックス、見た目もギャルとは一線を画している、ある意味『絶滅危惧種』的正統派女子高生である。
「おー、水澤。おはよう」
「あ、高橋君、おはよう」
 クラスメイトの高橋が挨拶して真琴を追い越していった。真琴が通う都立中野南高校は、駅から歩いて10分程度の所にある。普通科5クラス、偏差値もごくごく平均レベルの高校だ。
「水澤さん、おはよう」
 背後から声をかけられ、振り返る真琴。クラスメイトの村上(むらかみ)春菜( はるな)だった。出席番号が一つ違いなので真琴の後ろの席に座っている。そのため、クラスで一番初めに会話をしたのも彼女だった。真琴より少し身長が高く、ショートカットがよく似合う、いかにも活発で天真爛漫そうな少女だ。
「おはよう、村上さん」
「ねえ、今日の数学の課題やってきた?」
「うん、一応」
「ほんと? お願い見せて!」

「うん、いいよ」
 手を合わせて頼み込む春菜に、真琴はいいと答えながらも、内心ため息をつく。彼女はいつもそうだ。理数系が嫌いだから、と言って、いつも真琴の答えを当てにしている。本当はあまり得意な相手ではない。しかし、真琴は自分が友達をうまく作れないタイプだという事を自覚している。話しかけられれば答えるが、自分から積極的に話しかけるなんて、至難の業だ。かといって、一匹狼のように孤立できる程、肝が据わっている訳でもない。
 入学して1ヶ月が経ち、クラスにもグループが出来てきた。特に女子は、お洒落に余念のないギャルグループと、おしゃべり大好きグループの2派閥が、互いに対抗意識を持ちながらも微妙な均衡を保っている。春菜は、そのどちら側に付くでもなく、うまく馴染んでいる。真琴はなんとなく成り行きで春菜と行動を共にする事が多い。だからと言って、特別仲がいい訳ではない。なるべく目立たず周囲から浮かないように、うまく話を合わせ相槌を打っている。そんな自分が何より嫌いだった。
 隣では春菜のマシンガントークが続いている。やれC組の何とか君がかっこいいだの、物理の上田がエロオヤジくさいだの、十代の少女達が大好きな恋愛話や噂話が続いている。
――つまんない……。
 真琴自身、自分が異質であるという事に気付いている。明らかに彼女達とは違う、という事を。それが何か、と問われると何と答えればいいのかはわからない。ただはっきりと、『自分は普通ではない』と、そう思うのだ。しかしそれは『自分は特別なんだ』といった優越感や自己顕示では決してなかった。言うなれば劣等と自己卑下に近いものなのかもしれない。

 普通に高校に通い、友達を作り、部活をしたり寄り道して帰ったり、休みの日にはショッピングに出かけ恋の話で盛りあがる。そんな平凡な女子高生の日常は、自分には縁遠いものだ、そう真琴にはわかっている。
「そうだ、今日の帰り、買い物しにいかない?」

 屈託のない春菜の誘いも、真琴には正直鬱陶しかった。
「ごめん。あたし病院行かなきゃ……」

「そっか、お母さん入院してるんだっけ? 残念、また誘うね」
 どうせ断られるのがわかっているはずなのに、なぜ誘うのだろう。無邪気な春菜の明るさが、今日はやけに真琴の神経を苛立たせた。このままでは、ささくれた心から彼女を傷つける言葉が飛び出してきそうだ。
 校門をくぐり、玄関で靴を履き替えると、真琴は鞄から数学のノートを取り出した。

「はい、これ、数学の課題。あたし図書室寄って行くから」
「ありがと〜」
 図書委員の真琴はそれを口実に春菜から逃げる事にした。ノートを手渡すと、真琴は教室とは逆方向の図書室へと向かった。階段を上りながら、またため息がこぼれた。
 結局、自分は『普通』を演じているのだ。普通の女子高生の猫を被っている。否、いい子ちゃんぶっているのだ。孤立するのが怖いから、適当に話を合わせ、頼まれた事には応ずる。しかし、その心の内側では、自分の異質感に辟易している。そうやってどんどん性格がねじ曲がっていくのが、真琴自身にもよくわかっていた。
「あ〜あ、なんでこんなになっちゃったんだろうな……」

 そうひとりごちると、階段の斜め後方からくすっと笑い声が聞こえた。
「なんでだろうね?」
 明るいテノールの声。真琴が驚いて振り向くと、小柄で華奢な少年が立っていた。真琴と視線がぶつかり、にこっと微笑む。茶色い髪、色白で目の色も少し薄い、ハーフだろうか。長いまつげ、整った顔立ち、甘く爽やかな雰囲気のジャニーズ系美少年だ。しかし、見た事はない。これだけの美貌の主なら、女子生徒の注目の的のはずだ。噂好きの春菜の話題に出ない訳がない。
「職員室って2階だよね?」
「――あ、はい」

「ありがと」
 そう言って笑うと、美少年は真琴を追い越した。通り過ぎた彼からは新品の制服の匂いがした。

「転校生、かな?」
 とにかく印象的な少年だった。彼の大きな瞳に見つめられ、なぜか胸が高鳴った。しかし、恋ではない、そう直感する。そんな甘い感情ではない。漠然とした不安に、体が震える。なぜだか不安でたまらなくなる。なにか、とてつもなく大きな逃れられない波が目前に迫ってきている、そんな気がするのだ。しばらく踊り場に立ち尽くしていた真琴に、また背後から声がかかった。
「水澤? どうかしたのか?」
 振り返ると、同じクラスの小笠原(おがさわら)(りゅう)(せい)が立っていた。品行方正、成績優秀、教師からの信頼も厚いクラス委員だ。だからといって威張っている訳でもなく、誰とも分け隔てなく接する彼は、クラスメイトからの人気も高かった。頼りになるリーダーといった雰囲気の少年だ。隆聖の顔を見ると、少しではあるが胸騒ぎが治まったような気がして、真琴は安心したように軽く息を吐いた。
「小笠原君、おはよう」
「顔色悪いぞ」
 180センチ近い長身が、真琴の隣に立つ。マッチョでもなく、かといって細すぎもせず均整が取れたバランスのよい体躯の持ち主の彼は、空手部のホープ的存在だ。細いシルバーフレームの眼鏡の奥の黒い瞳が、心配そうに真琴を見つめていた。フレームで隠れてはいるが、右の眉尻に2、3センチ程度の古い傷がある。刃物傷のようにも見える。しかしそれを差し引いても、きりりとした硬派な印象の美少年である。
「ううん、大丈夫。ありがと」
「無理はするなよ」
 実は真琴は集会で貧血を起こす常習犯である。そんな彼女を、クラス委員の隆聖はいつも気に留めてくれる。なぜか彼だけには、優しくされても劣等感や嫌悪感は抱かなかった。その黒い瞳に見つめられると、なぜか懐かしさのような感情が湧きあがってくる。
「今から図書室?」
「うん」
「じゃ、丁度よかった。これ返却、よろしく」
 そう言って手に持っていた本を真琴に手渡すと、隆聖は爽やかな笑顔を残して足早に今来た階段を下りていった。
「あっ、小笠原君……」
 尻すぼみになる真琴の声。口下手な彼女が、ほぼ唯一まともに会話が出来る男子が隆聖である。もう少し話していたかったのに……。ふう、と真琴は本日何度目かのため息をついた。
 ふと手渡された本に目を落とす。彼がどんな本を読んでいるのか興味があった。新書版の表紙には『日本の呪い』とストレートな題名が書いてあり、真琴は一瞬目がテンになった。著者は小松和彦。文化人類学・民俗学を専攻する『鬼』や『呪い』研究の第一人者らしい。

「小笠原君、こういう本読むんだ……」
 少し驚いたが、真琴も実はオカルト関連には興味があった。読んでみようかと思い、真琴は階段を上りはじめた。
 いつもとは少し違う朝の出来事。水澤真琴、小笠原隆聖、そしてまだ名前の知れぬ転校生。三人の運命の歯車が交錯し動き出した、その瞬間だった。




 朝のホームルームの本鈴が鳴っても、1年B組の生徒達は教室を動き回りおしゃべりを続けている。毎度の事ながら、何でこんなに騒がしいんだろう、と真琴は思う。こんな事態を収拾するのは、いつもである。
「お前らいつまで喋ってるんだ。ほら、佐藤、長島も、早く座れよ」
「はぁい」
「へ〜い」
 クラス委員の隆聖がたしなめるように声を掛けると、騒いでいた男子生徒や嬌声をあげていた女子生徒もおとなしく席に着く。命令口調ではあるが、決して威圧的ではない。彼がクラスメイトからも信頼を得ている所以はそこにあると思う。春菜から聞いた噂によれば、隆聖は偏差値も高く、なぜこんな普通の都立高校に通うのか教師達に不思議がられている。しかも、かなり名家のお坊ちゃんらしい。しかし、それを口に出し鼻にかける事もなく、威張らず媚びず、いつも優しく真っ直ぐなまなざしは、女子の憧れの的でもあった。
 日課のように隆聖がクラスを静かにさせた後、計ったようなタイミングで担任の英語教師・上条麻里子(かみじょう まりこ)が入ってきた。隆聖の声が響く。
「起立、礼、着席」
 隆聖の号令で、クラスが一斉に礼をするこの瞬間を、後ろから2列目の自分の席から見るのが、真琴は好きだった。
「おはよう、みんな」
「おはようございます」
 ペールオレンジのシャツにチャコールグレイのパンツ姿、本人ははっきりと口にはしないが、三十路間近らしい。セミロングの髪をまとめ上げ、ナチュラルメイクと言うよりもほぼすっぴんに近い。さばさばした姉御肌の担任教師である。
「麻里子ちゃん、今日も寝坊した?」
 クラスのムードメーカーの荒木が、そう茶化すように声を掛ける。
「うるっさいな。してません」
「えー、髪の毛ちゃんとまとまってねーぞ」
 その荒木の発言に、どっとクラスから笑いが起こる。朝が苦手な担任教師は苦い顔をすると、ドンドンと出席簿で教卓を叩いた。
「はい、注目! 今日は転校生を紹介します。どうぞ、入って」
 上条の言葉にクラスがまたざわめく。ゴールデンウイークも終わり、まもなく6月になろうとしているこの時期に、転校生とは珍しい。余程の事情があったのか。そんな事を考えていた真琴の視界に飛び込んできたのは、先刻階段で出会った少年だった。
「――!」
 予想外の美少年の登場に、女子生徒からは黄色い声があがり、男子生徒からはやっかみの混じった無遠慮な視線が投げつけられた。しかし、それをさして気にした風でもなく、転校生は教壇に立った。隣に並んだ165センチの上条より少し背が低い。小柄で華奢な少年である。上条が黒板にチョークで名前を書いている間、女子達は熱いまなざしを送っていた。とんとん、と肩を叩かれ、真琴は軽く振り返る。
「かっこいいね」
 春菜の語尾にはまるでハートマークがついているようだ。かっこいい、とは思うが、はっきり言って真琴の趣味ではなかった。真琴は適当に相槌を打ち、前を向き直る。黒板には『藤城(ふじしろ)闘牙( とうが)』と書かれていた。
「はい、お静かに。岐阜から来た藤城闘牙君です。みんな仲良くしてあげて。ね、男子諸君」
 念を押すような上条の言葉。男子生徒達はどこか不満げだ。上条にうながされ、美少年は自己紹介を始めた。
「岐阜県飛騨市から来ました、藤城闘牙です。父の仕事の都合でこんな時期に引っ越す事になってしまいました。転校は初めてなので戸惑ってますが、皆さんよろしくお願いします」
 そう言って一礼する闘牙。高めの甘いテノールの声に、女子のボルテージが上がる。まるで教室内の温度が上がったかのようだ。
「委員長・小笠原」
「はい」
 名前を呼ばれ、隆聖が軽く手を上げる。そちらを見て、闘牙は軽く会釈する。
「色々と教えてあげて」
「わかりました」
「じゃ、席は小笠原の後ろにするか」
 隆聖の後ろの席が丁度空いていた。上条にうながされ、席に向かう闘牙。
「よろしく、()()()()
 隆聖の前で軽く立ち止まり、そう言う闘牙。その言葉に、何か微妙な含みのようなものを感じ、隆聖は一瞬眉を寄せた。闘牙に悟られないようにではあるが。
「ああ、こちらこそよろしく」
 しかしすぐさま、そう言って優等生の笑顔を返すが、心の中は穏やかではなかった。
 ひどい胸騒ぎを覚える。背後から感じられる闘牙の《気》は、ごく普通の高校生のものではない。巧くカモフラージュしてはいるが、彼からは血のニオイがする。何より隆聖の本能が、直感が、彼は危険だ、と告げている。
――いよいよ来たのか? この時が……。
 そう心の中で隆聖はつぶやく。真琴が漠然と感じ取った不安が、隆聖の中で確実に形を持った。



 ホームルームが終わると、闘牙の周りにはどっと女子生徒が押し寄せた。誰よりも素早かったのは、ギャルグループのリーダー格・佐藤(さとう)美加( みか)だ。質問の嵐を闘牙に投げかける。どこの高校から来たのか、どこに住んでいるのか、家族構成から趣味、得意教科、携帯番号とアドレス、果ては彼女がいるのか等々……。闘牙は嫌な顔一つせず、女子達の質問に答えている。
「藤城君ってハーフなの?」
「ううん、クオーター。祖母がフランス人なんだ」
 その答えに黄色い声があがる。男子生徒達はうんざりした様子で闘牙を囲む輪を見つめ、何かぶつぶつと言い合っている。真琴は遠くからそんな彼らを呆然と見つめていた。
「くっそお、出遅れたぁ」
 舌打ち交じりのつぶやきが後ろの席から聞こえ、真琴は振り返る。見ると春菜が心底悔しそうな表情で唇を噛んでいた。
「はは、失敗したな村上」
 ちょうど二人の席のそばを通りかかった隆聖が笑いながら話しかけた。
「佐藤なんかすごい勢いだったよ。あいつ、礼し終わる前にすでに動いてたからな……」
 隆聖も半ばあきれた様子だ。軽く肩をすくめてみせると、そのまま廊下へと出て行く。人気のない廊下の片隅で学生服のポケットから携帯電話を取り出すと、とある人物の番号を押す。スリーコールで相手が出た。
『どうした?』
 回線の向こうから返ってきた声は、まだ若いが落ち着いたバリトンの声だった。隆聖のりりしい眉が引き締まった。
「ちょっと緊急事態。今日、学校終わったらそっち行ってもいい?」
『わかった。迎えをやる。また後で連絡よこせ』
「了解」
 そう言って電話を切る隆聖。ちょうどその時、1時限目の鐘が鳴り、彼は大きくため息をつく。これから教室に戻り、いつにもましてうるさいクラスメイト達をおとなしくさせなければならない。しかも、その輪の中心にいるのは(くだん)の少年である。
「ちっ、やっかいだな」
 苦い顔で舌打ちすると、隆聖は教室に戻った。






                                             更新日:
2010/03/08(月)