第一部          かくせい   醒
    


   2・再会



「真琴ちゃん、おかえりなさい。お見舞いの方がみえてるわよ、男の方」
 エレベーターを降りた所ですれ違った母の担当のナースにそう言われ、真琴は首をかしげた。今まで母が入院していても、見舞いに来る人などほとんどいなかった。時折、近所の人やパート先の人が訪れる程度で、それも決して多くはなかった。
「……誰だろ?」
 不思議に思いながら廊下を歩く真琴。母の病室は、6階東棟の一番奥の個室だ。決して豪華な特別室という訳ではないが、洗面所やトイレ、冷蔵庫や電話もついている。母子家庭の水澤家は、経済的に余裕があるとはいえない。真琴もそろそろアルバイトを始めようかと考えている。それに、母の病気は感染するものではないから、特に個室である必要はないはずだ。大部屋でも充分なはずなのに。
「……なんで?」
 よくよく考えてみれば、疑問ばかりが浮かんでくる。母はあまり自分自身の事や父との事を話さない。父と母は駆け落ち同然で一緒になったらしく、真琴は親戚はおろか祖父母の顔すら見た事がない。父の死についても、そして8年前のあの《事件》についても、真琴が触れてはいけない話題のように思っているだけでなく、聞いても母は上手く話題をすり替えてしまうのだ。
 ぞくぞくっ、と悪寒がして真琴は体を震わせた。もう母の病室は目の前だ。しかし、入るのが怖い。聞き耳を立てるとドアの中から、話し声がもれてくる。詳しい内容まではわからないが、男性の声だ。
「……もうすぐ8年……彼らが……真琴を……」
 そんな言葉が聞こえた。その刹那、真琴は廊下を駆け出していた。夢中で休憩スペースまで走る。息を切らしている真琴を見て、牛乳を飲んでいた初老の入院患者の男性が怪訝そうな顔をする。真琴は軽く息を整えると、紙コップに水を注いで椅子に腰を下ろした。
 8年前、自分は《神隠し》にあったのだ。とはいえ、その時の記憶はすっぽりと抜け落ちている。そして、父が亡くなったのも同じ頃だという。だから、真琴自身父の死に直面していないため、その実感がわかない。母の秘密主義的な部分も一因にあり、真琴はもしかすると父はどこかで生きているのかもしれない、そうまで思った事もある。
「まさか、お父さん……?」
 そう思うと、真琴はいてもたってもいられなくなった。水を一気に飲み干すと紙コップを捨て、早足で歩き出す。そして、母の病室の前に着くと、息を整えドアをノックした。
「どうぞ」
 母の声。真琴は深呼吸してドアを開けた。
「今日は遅かったのね、真琴」
 ベッドの上の母・静佳は、わずかだが頬が紅潮しているように見えた。傍らに座っていた男性がこちらを見る。年の頃は20代後半といったところか。ダークスーツに、オレンジ系でまとめたシャツとネクタイが良く似合う。耳にはさりげなくダイヤのピアスが光っているが、違和感はない。意志の強そうな眉と目元、左目下の泣きぼくろ、きりりと結ばれた唇、精悍でシャープな印象の美青年だ。明らかに『父』ではなく、真琴は少し落胆する。
「こんにちは」
 バリトンの声で爽やかに笑う。真琴はぺこりと頭を下げた。
「昔、お母さんがお世話になった方の息子さんよ」
「小笠原肇です」
「はじめまして、娘の真琴です」
 自己紹介する彼に真琴も答える。
 小笠原、隆聖と同じ苗字だ。ふと彼の顔に目をやる。似ているような、似ていないような……。多い苗字でもないが、特に珍しいという程でもないから偶然だろう、と真琴は思う。
「君が小さい頃、会った事があるんだけど、覚えてないよね?」
 肇の言葉は、まるで確認するような口調だった。一瞬、静佳の表情が曇る。
「……え? あ、すみません、覚えて、ないです……」
「いや、いいんだ。君はまだ小さかったし」
 どこかで会った気もするが思い出せない。頭を下げた真琴に、彼はやさしく微笑んだ。少し色素の薄い瞳は穏やかな色で真琴を見つめていた。
「じゃあ、僕はそろそろお暇します」
 そう言って立ち上がる肇。静佳はベッドから降りようとするが、肇はそれを右手で制した。
「そのままで結構です」
「すみません。わざわざありがとうございます」
「いえ、ではまた」
 丁寧に一礼する肇に、真琴も頭を下げる。礼儀正しい彼に、真琴は少なからず好感を持った。
「お大事に、静佳さん(・・・・)
 帰り際の肇の言葉、母を名前で呼ぶ彼に、真琴の心臓はどきりとした。肇と、断片的に残る記憶の中の父・真一とは似ても似つかない。 年齢的にも、父であるはずはないのだが、何か母と彼の間に秘密めいたものを感じる。
「……ふう」
 肇が出て行ってしばらくして、静佳が軽く息を吐いた。母にしては珍しく緊張していた面持ちだった。
「お母さん」
「なに?」
「今の人、誰?」
「言ったでしょ、昔お世話になった方の息子さんだって」
 母の表情は変わらない。
「ほんとに?」
「なによ、どういう意味?」
「…………」
 何と言っていいのかわからず、真琴は眉間に皺を寄せた表情で沈黙する。そんな娘の姿を見て、くすくすと笑う静佳は、本当にいつもと変わらない。
「変な子ね。あ、そうそう、お菓子頂いたのよ、食べたら?」
 サイドボードを指差す静佳。花のアレンジメントとケーキの箱が置いてある。花はイキシア、和名・槍水仙(やりずいせん)。白やピンクの清楚で可憐な花だ。静佳のイメージにとても合っていて、真琴は感心する。
「お花もあの人が?」
「ええ。きれいな花でしょ」
 真琴はケーキの箱を覗き込む。平日でも行列が絶えないという有名洋菓子店のものだ。中にはフルーツやチョコレートなどで彩られたカラフルなケーキが入っている。
「うわ、おいしそ」
 何気なく少し開いている引き出しの中に目線を下ろした真琴。その視界に、分厚い封筒が飛び込んできた。銀行に置いてあるような、お札を入れるサイズのものだ。明らかに、どう見ても帯封のしてある札束が入っているようだ。とはいえ、 真琴は実際札束など目にした事はなかったが……。
 見下ろしたままの状態で固まる真琴に気付いたのか、静佳は何気なく引き出しを閉めた。
「手洗ってきなさい」
「はーい」
 そう返事して洗面所に立つ真琴。鼓動が高鳴る。母の顔を見るのが、なぜか怖い気がする。わざと水音を大きくして真琴は手を洗った。
「……お母さん、何を隠してるの?」
 聞こえないようにそうつぶやく。
 もうすぐ、パンドラの(はこ)が開く……。不意にそんな気がして、真琴は身震いする。
「お母さん、あたし売店行ってくる。何か買ってくるものある?」
 手を拭きながら、母の顔を見ずにそう尋ねる真琴。
「じゃあ、紅茶なくなりそうだから買ってきて」
「うん、わかった」
「お金やるわよ」
「大丈夫。じゃ、行ってくるね」
 そう言って足早に病室を出る真琴。不自然だっただろうか、と思うが、胸騒ぎが収まらず、母の顔を直視できなかった。真琴はため息をつきながらエレベーターで2階まで降り、売店へ向かった。
 途中、吹き抜けから玄関ホールが見える。ふと階下に目をやると、丁度肇が出口へ向かっている所だった。出入り口近くの椅子に腰を下ろしていた青年が、肇に気付いて立ち上がり一礼した。遠目から見てもわかる鮮やかな色のシャツにジーンズ姿。カジュアルで派手ないでたちのその青年と、落ち着いたダークスーツ姿の肇はどう見てもバランスが悪い二人組だ。何か少し話をしたかと思うと、肇は引き抜くようにネクタイを外しジャケットを脱ぐと、それを青年に投げ渡した。慌てて受け取る青年。そして、肇はシャツの胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけ、サングラスをかけると大股で歩き出した。その後ろを、慌てたように派手なシャツの青年がついていく、マメにジャケットとネクタイをたたみながら。
「――!」
 当然病院内は禁煙、大きく張り紙もしてあるというのに……。
 二人の様子を遠目から眺めていた真琴は呆然とする。先程の礼儀正しい穏やかな好青年の印象は急落した。
「……なんなの? あの人、一体何者?」


 時は少し遡り、肇はというと、混雑していたエレベーターを避け、静佳の病室のあった6階から階段を使い、玄関ホールへと足早に歩いていた。様々な人の《気》や《念》が入り乱れる病院は、彼にとって心地良い場所ではない。
「肇様」
 待合スペースの椅子に腰を下ろしていた修司が立ち上がり一礼する。今日の柄は、ポリネシアン系の民族楽器で、アロハにしては落ち着いたものではあったが、いかんせん地の色がショッキングピンクで、およそ病院向きの雰囲気ではない事は確かだった。
「どうなさいました? お顔の色がすぐれませんが」
 いつもより少し青い顔をして眉間に皺を寄せる肇に、修司は心配そうに声をかける。
「ああ、あまり長居したくない場所だからな。色々とあてられた(・・・・・)
「俺は何も感じませんけど」
 そう言ってあはは、と笑う修司。肇はあきれたように鼻で笑った。
「お前のニブさはある意味賞賛に値するぞ、加地」
「え〜、どういう意味ですかぁ」
 茶化すような肇に、修司もおどけて答える。
「ああっ! だめだ、もう耐えられんっ!」
 イライラした様子でそう吐き捨てると、肇はネクタイを引き抜き、脱いだジャケットとともに修司に投げるように手渡した。 あたふたとそれを落とさないように受け取る修司。肇はシャツの胸ポケットからセブンスターを取り出し火をつけると、もう一方のポケットに差してあったサングラスを装着する。
「肇様、禁煙ですってば!」
「気にするな、どうせすぐ出る」
 そう言うと大股で闊歩する肇。修司は器用にジャケットとネクタイをたたみながら肇の後をついていく。
 自動ドアから外へ出ると、強い風が二人の間を吹きぬけた。冷たく乾いた風だった。肇はサングラスを指で少し上げ、 西に沈みかける太陽を睨んだ。まばゆい程の日差しが彼の色素の薄い瞳を直射する。肇はきりっと眉を上げ、サングラスを戻すと天を仰いだ。
「肇様?」
 背後から修司が心配したように声をかける。肇は軽く右手を上げて修司を制すると、携帯電話を取り出し目的のナンバーを検索する。 『実家』と書かれた番号を呼び出すと、電話の向こうからは落ち着いた女性の声が返ってきた。
『はい、小笠原でございます』
「義姉さん、肇です」
『あら、肇さん。昨夜は隆聖がお世話になりました。迷惑かけたんじゃない?』
「そんな事ないですよ。ところで、兄貴はまだ帰ってないよね?」
『ええ、今日はまだ。帰って来たら電話するように伝える?』
「いえ、大丈夫。明日の午後、そっち行くって伝えてくれますか? あと、(あかつき)にも」
『はい、わかりました』
「じゃあ、明日」
 そう言って電話を切る肇。ふうとため息をつくと、修司の方を振り返る。瞳はサングラスに隠れてはいたが、その表情はいつもより厳しいものだった。
「加地。明日、車を出せ」
「松濤までですね?」
「ああ。ついでに松本の所にも寄るか。ムートンの一本でも土産に持って行けば喜ぶだろ。そうだな、11時頃迎えに来てくれるか?」
 肇の言葉に、修司はうなずいた。
「はい、承知致しました」



                                             更新日:
2011/01/26(水)