第一部          かくせい   醒
    


 中野駅近くのマクドナルドの2階席の一角に陣取った四人。『小笠原先生の物理の講義』を受け、真琴は理解を深め、優と春菜はなんとか理解のドアを開けて中へ一歩踏み出した、といった雰囲気だ。
「はあ。わかった、……ような気がする」
 ずるずる、とコーラをストローですすりながら優がつぶやいた。春菜も頭上に浮かんでいるクエスチョンマークが、授業中よりはだいぶ小さく なったような気がして、「右に同じ」とつぶやき、左手でポテトをつまんだ。
「ていうか、上田の授業がサイテーって事がよくわかったわ。小笠原君が教えてくれた方が丁寧でわかりやすいって、どういう事?」
「……おいおい」
 春菜の言葉に複雑な表情を返してコーヒーを口にする隆聖。だが実際、物理教師の上田の授業は、生徒の理解度に関わらず教科書のページをただ読み上げ、黒板に公式や数式の羅列を書いては消し、それを繰り返して進めていくようなものだ。
「小笠原先生のおかげで赤点は免れるな。サンキュー。ま、遠慮せずに食え食え」
 優はそう言うと、隆聖の口の前に一番長いポテトを差し出す。隆聖は苦笑いしながらそれに噛みついた。
「え? もうこんな時間?」
 何気なく店内の時計を見上げた真琴が、びっくりした様に声をあげた。時計の針はもうすぐ4時半を指そうとしている。 バタバタと慌ててノートなどを鞄にしまう真琴に、向かいの席に座っていた春菜が声をかける。
「今日も病院?」
「うん。ごめん、あたし先に帰るね。小笠原君、教えてくれてありがとう」
 そう言って立ち上がる隣の席の真琴、隆聖は軽く右手を上げた。
「ああ、またいつでも教えるよ」
「うん、ありがとう。じゃあ、みんなまた明日ね」
 笑顔を返す真琴は、自分の飲んだ紙コップを持ってテーブルを後にした。物理の教科書を鞄にしまおうとした隆聖は、 向かいで優と春菜がひそひそ話しているのに気付く。
「なんだ、お前ら。俺は邪魔か?」
「あっ! いやっ、邪魔っつーかなんつーか……」
 口ごもる優の脇腹を、春菜が肘で小突いた。
「いでっ!」
「ああっ! 水澤さんに本返すの忘れてた。委員長っ! お願い、これ持って追っかけて」
 突然春菜はそう叫ぶと、鞄から一冊の本を取り出し、隆聖の目の前に差し出した。『でぶねこめんまさん』というタイトルの、ほっかむりした猫の写真の表紙に、隆聖は思わず吹き出した。
「なんじゃ、こりゃ。村上、自分で返せよ。何で俺が」
「邪魔だから」
 にこっと笑ってそう言う春菜。隣で優が不満そうな、何か言いたそうな複雑な表情をしていたが、春菜は有無を言わさぬ雰囲気で隆聖の手に本を押し付けた。
「お願い」
「……わかった、邪魔者は消えるとしますよ。じゃ、また明日、学校でな」
「おっ、小笠原……つっ……」
 何かを言おうとした優に、また春菜の肘がヒットし、彼はその言葉を飲み込んだ。
「じ、じゃあな、バイバイ」
「バイバイ、委員長」
 苦悶の表情で脇腹を押さえながら左手を上げる優と、盛大に手を振る春菜。隆聖は納得いかないような表情で首を傾げな がら席を後にすると、すぐ小走りで階段を下りていった。
「……はあ、行った行った」
 隆聖の後姿が見えなくなると、春菜は軽くため息をついた。
「いって〜ぞ、村上っ! お前、レバーに入れるな、レバーにっ!」
 春菜の二度目の肘が、丁度肝臓あたりに入ったらしい。優はまだ痛そうに脇腹を押さえている。
「あんたが『送ってってやれ』って言わないからよ。ったく、気が利かないんだから」
 春菜はすっかり溶けてしまったシェイクを飲み干すと立ち上がる。
「何、もう帰るのか?」
「のど乾いた。アイスティー買ってくる」
「俺のコーラもおかわり〜」
「仕方ないわね。次はあんたのおごりだからね」
 そう言ってレジに向かう春菜。その後姿を見送ってから、優は盛大なため息をついた。
 一方、店を後にし、病院に向かって歩いていた真琴は、後ろから自分を呼ぶ声が聞こえて立ち止まり振り返る。
「――水澤!」
 一際目立つ長身の少年が、息を切らせて追いかけてきた。
「小笠原君、どうしたの?」
「……お前、結構歩くの早いな」
 真琴の隣に並び、軽く息を整える隆聖。左手に一冊の本がしっかりと握られていた。
「これ、村上が、お前に返すの忘れてた、って」
「え? これ、あたしが今日村上さんに返した本だけど……」
 差し出された本を見て、きょとんとする真琴。
「――くっ、あいつら……」
 あの何か言いたそうだった優の表情も、あまりにも強引な春菜の頼みと別れ際の満面の笑みも、すべて納得がいって、隆聖はため息をついた。つまりは自分と真琴を二人きりにするための作戦で、まんまとはめられたという事だ。
「小笠原君?」
 不思議そうな表情で隆聖を見つめる真琴。
「いや、何でもない。しかし、すごい本だな」
 隆聖はパラパラと本をめくる。巨大猫めんまさんの様々なショットが収められた、猫好きにはたまらない一冊、……らしい。
「かわいいよね、めんまさん」
「これ、かわいいって言うのか?」
 元々犬派の隆聖には、このオッサンくさい巨大猫がとてもかわいいとは思えなかったが、どうやら真琴はいたくお気に入りのようだ。隆聖はどこか腑に落ちない表情で、本を学生鞄にしまった。
「せっかくだから、病院まで送ってくよ」
「え? そんな、いいよ、わざわざ」
「気にするな。東郷記念病院だろ?」
「あれ? 小笠原君、何で知ってるの?」
 しまった、と隆聖は自分の失言に気付く。昨日、肇との会話に出たので覚えていたのだが、それがアダとなったようだ。
「……あ、ああ。上条先生から聞いた」
 とっさに担任の上条の名を出し、何とかその場を取り繕う隆聖。
――まだ、知られる訳にはいかない。
「行こうぜ」
「うん」
 ゆっくりと並んで歩き出す二人。
「どうなんだ? お母さんの具合は」
「もうすぐ退院出来るみたい」
「そうか。よかったな」
 真琴の笑顔に、隆聖は目を細める。学校では消極的でおとなしい真琴。だが、本来の彼女は、泣き虫な所もあるが明るく活動的な性格である事を隆聖は知っていた。少なくとも8年前のまま大きくなっているとすれば、ではあるが。
 病院までの道のりを、他愛もない話をしながら歩くうち、真琴は不思議な感覚にとらわれていた。隣にいる隆聖の存在を、とても近くに感じるのだ。物理的にも、精神的にも。今まで、どちらかというと一歩引いた位置で自分を見つめていてくれた彼が、今はすぐそばにいてく れる、そう感じるのは自惚れだろうか。
 今なら、気になっていた事を聞いても大丈夫、そんな気がする。
「ねえ、小笠原君……」
「ん?」
「あの……、その目の上の傷、どうしたの?」
「――!!」
 思いもよらない真琴の質問に、隆聖は言葉に詰まる。
――まさか、思い出したのか?
「あっ、ごめんね、変な事聞いて。なんか、すごく痛そうだな、って思ったから」
「ああ、別に痛くはないよ、今は」
 真琴の質問は、単なる興味だったようで、隆聖は心の中でほっと息をついた。
「ガキの頃に、ちょっと無茶してつけた傷なんだ。あ、お前、ヤクザの傷みたいだって思ってただろ」
「ええっ! そんな事ないよっ!」
 隆聖の言葉をうろたえて否定する真琴。しかし、どうやら図星だったようだ。
「ははは、仕方ない。結構みんなに言われるんだ。もう少し目立たなく出来るらしいんだけど……」
「そうしないの?」
「ああ。あの時の事を忘れないようにするためにも、このままにしておこうと思って……」
 鏡に映ったこの傷を見るたびに、あの時の苦い思いを思い出すために。幼かったから仕方がない、そんな言い訳をする自分自身を戒めるために。あんな思いは二度と味わいたくない、そして、決して味わわせてはいけない。隆聖は無意識で唇を噛みしめた。
「……ごめんね」
 少し表情を硬くした隆聖の様子を見た真琴は、申し訳なさそうにぽつりとつぶやいた。触れてはいけない話題を取り上げてしまったのだろう、と。
「あ、誤解するなよ。今のは俺が勝手に昔思い出しただけ。だから気にするなって。ほんとお前は考えすぎだよな。少しは遠藤と村上の能天気さ見習えよ」
「え〜、二人が聞いたら怒るよ」
 真琴は少しほっとした表情で言葉を返す。その後も隆聖は変わらず話を続けてくれたので、病院までの道のりは思いがけず楽しいものになっていた。入り口前で立ち止まる二人。
「わざわざありがとう、小笠原君」
「ああ。じゃあ、また明日な」
「うん」
 笑顔で病院へと入っていく彼女の後姿を見つめながら、隆聖は聞こえないように小さくつぶやく。
「……ごめん、真琴……」
 彼女に対する懺悔の気持ちが、隆聖の中にあふれていた。真琴に秘密にしている8年前の事。秘密、ではなく嘘をついているのかも しれない。彼女を欺き、騙しているのだ。真琴にあの時の記憶がないのをいい事に……。
「サイテーだな」
 自らに対して怒りがこみあげ、隆聖は強く拳を握り締めた。真琴のため、と言ってはいるが、結局は自分の保身なのだ。 幼い自分が犯した大きな罪、その代償を背負う事になってしまった彼女。だから、自分が真琴を護らなければならない。そう、誓ったから。
 小さくなっていく真琴の後姿を見送り、隆聖は唇を噛みしめた。
「……お前は、俺が護るから……」


                                             更新日:
2011/01/26(水)