第一部          かくせい   醒
    


 新宿の高級ホテル内にある超有名高級中華料理店。店内に歩を進めた四人は、すれ違いに店を出ようとしていたカップルの視線を釘付けにしていた。
 支配人らしき中年男性が丁寧に頭を下げ、彼らを案内する。どうやら肇はこの店の常連のようだ。隆聖はきょろきょろと店内を見回す。店のネームバリュー、豪華な内装とインテリア、行き届いたホスピタリティ、そして料理の質、価格帯、全てにおいて超一流といえるであろう。
 先頭を闊歩するサングラス姿の長身の男、その後にキャリアウーマン風の美女、学生服の少年、一番後ろを歩くのは一見チンピラ風の青年だ。はたから見れば、どういう組み合わせなのか、と首を傾げられるだろう。
 いつもの個室に通され、肇は上座に腰を下ろした。
「叔父貴、マジで上限なし?」
 落ち着かない様子でそう尋ねる隆聖に、肇はサングラスを外しながら答える。
「ああ。好きなもん食え」
 子供のように喜ぶ隆聖(実際まだ子供なのだが)を見て、肇は苦笑する。
「なんだかんだいってもまだガキだな、お前」
 ぽつりとつぶやく肇に、隆聖はぴくりと反応する。
「え? なんか言った?」
「いや、何でもない。加地、適当に頼んどけ」
「はい。今日はお飲みになりますか?」
「ああ、とりあえずビールと、あとはいつもの紹興酒でいい」
「了解しました。若、コースでいいでしょう?」
「えー、コースだけじゃ足りねえよ」
 メニューを見ながら、ああでもないこうでもない、と迷っている隆聖と、それにアドバイスというよりちょっかいを出す修司の姿を見て、肇は軽く笑いながら煙草に火をつけた。
「肇様」
「ん? どうした?」
「例の転校生のデータ、補足分です。松本君に少し突っ込んで探ってもらいました」
 志麻はバッグから数枚の紙を取り出すと、肇に手渡した。
「すまんな」
 松本とは、志麻の同級生の情報屋である。法外な報酬金額と引き換えに、狙った相手の生活習慣や行動パターンはおろか、ヘソクリの額まで調べあげてしまうとまで評される、犯罪すれすれのハッカーまがいの仕事をしている男だ。肇とも面識があり、クールかつ大胆な仕事をやってのける松本を肇もいたく気に入り、何かとひいきにしている。
「最近会ってないが生きてるのか、ヤツは?」
「ええ、なんとか。ないのはヒマだけだ、ってボヤいてました」
「はは、そうか。そのうち顔出すって伝えておけ」
「はい」
 その用紙に目を落とし、肇の表情が固く険しいものになった。視線は50歳前後のスーツ姿の男の画像に釘付けになっている。
「……この男、藤城姓を名乗ってはいるが、倉岡伸吾(くらおかしんご)だな。よりにもよって、妖怪ジジイの側近中の側近がついて来るとは……。あっちもいよいよ 本腰をあげる気だな」
「そうですね。流石に校内で仕掛けてくる事はないとは思いますが、私も充分警戒します」
「ああ、頼んだ」
 小声で話す肇と志麻。隆聖に聞こえないようにとの配慮ではあったが、彼はメニュー選びに夢中でこちらの事などまったく気にしていないようで、肇は紫煙を吐き出しながら笑った。
「決まったか?」
「あ〜、もう迷うなぁ。叔父貴、マジで上限なし?」
「いいって言ってるだろ、何度も聞くな。ただし、頼んだ物は残さず全部食えよ」
「わ〜かってますよ。叔父貴が『食事残すヤツ嫌い』ってのはもう耳タコ」
 本当にどれにしようか決めかねている様子の隆聖。『食える時に食っておけ』とは言ったものの、本当に食べる気満々の様子の甥っ子を、肇は苦笑いして見つめながら煙草をくゆらせた。
「さて、今日の会計はいくらになる事やら……」



 翌日の中野南高校。隆聖が教室に入ったのは8時半を少し回った頃、クラスのほぼ全員が登校していた頃だった。
「お〜、どうした? 珍しいじゃん、お前が遅刻ギリギリなんて」
 席につき一息ついた時、前の席の遠藤優(えんどうゆたか)が声をかけてきた。クラス一の運動神経を誇る元気少年で、彼も空手部に所属している。体育の授業ではよきライバルであるが、勉強面ではよく隆聖に教えを請う、一番仲の良い友人である。少々お調子者すぎる所が、彼の短所でもあり長所でもあると言える。
「ああ、ちょっと頭痛くて」
 昨晩は調子に乗ってさんざん食べ、しかも肇の家に戻ってからしこたま呑んでしまい、結局泊まってしまった。今も二日酔いで頭がグラグラする。 しかし、こんな時でも優等生演技をしてしまう自分がいる。とはいえ嘘を言っている訳ではないが。内心苦笑いする隆聖に、優はくいっと顎で後ろを示す。
「大丈夫か? そういえば藤城もまだ来てないぜ。転校二日目で遅刻かな? かわいい顔して、意外とやるな、あいつ」
「どこかで女子にでも捕まってるんじゃないのか?」
「ありかもな。そういえば、お前もあったよな」
 入学式、新入生代表として挨拶をした隆聖は、1年生だけでなく上級生の女子の注目の的となっていた。そして、その女子達のターゲットは今や美貌の転校生に移った事は間違いない。
 ホームルームの本鈴とともに、闘牙が教室に滑り込んできた。女子からの挨拶に笑顔で答えると、窓際の一番後ろの席についた。
「おはよう、藤城」
 さりげなく、あくまで委員長的に声をかける隆聖に、闘牙も笑顔で答える。
「おはよう、小笠原君。あれ? 顔色良くないよ」
「ああ、ちょっと頭痛」
「大丈夫?」
 担任の上条が入って来たのに気付いた隆聖は、会話を中断し前を向き直り号令をかける。
「起立!」
 ガタガタ、と机と椅子が動かされる音に紛れたが、後ろでつぶやく闘牙の声が隆聖の耳にはとてもはっきりと聞こえていた。
「……ふふ。まだ始まってもいないからね」
「――!!」
 隆聖は一瞬身を硬くしたが、周囲に気づかれぬように平静を装い号令を続けた。上条は挨拶の後、まもなく始まる中間テストの日程を発表し、 クラスメイトからはざわめきとため息が漏れた。いつもと変わらぬ1年B組の様子と同化するように、闘牙から発せられる《気》も、先程の殺気めいた色は失われていた。
 それはもしかすると言葉として発せられたものではなかったのかもしれない。しかし、二日酔いの隆聖の意識をしっかり覚醒させるには充分すぎる ものだった。



 その日の1年B組は、たいぶ落ち着きを取り戻していた。とはいえ、休み時間ともなると、闘牙の周りには女子が群がり、果ては廊下には他のクラスの生徒や上級生までもが噂の転校生を一目見ようと列をなしていて、男子達は相変わらず顰蹙のまなざしを送っていた。
「はあ。いつになったら収まるんだろうな? この騒ぎ」
 放課後、呆れ顔の優が隆聖に声をかけてきた。後ろを向きながら、隆聖の机にべったりと顔を伏せ、ため息をつく。
「ま、しばらくは無理だろ」
「何だよ、その発言。お前だって、そりゃあえらい騒がれ様だったろ?」
「そうか?」
「あー、やだやだ。余裕だよ、この人。ま、お前の場合、上手くかわしてたから、 女子も結構あっさり引き下がってたみたいだけど、あいつはなあ……」
 優の目線の先には、女子達と談笑しながら教室を出て行く闘牙の姿があった。とりあえず、今日は何事もなく終わったようだ。隆聖は内心安堵しながら彼の後姿を見送った。闘牙が去った教室は、やけに静かに感じられた。
「藤城、愛想いいからな」
「ていうか、佐藤が強引過ぎなのよ!」
 隆聖の言葉にかぶせるように、半ば怒気を含んだ少女の声が降ってきて、隆聖と優は驚いて目線を上げた。まるで仁王立ちでもするように腰に手を当てた春菜と、その後ろに真琴が立っていた。
「よっぽど根に持ってるな、村上」
 苦笑する隆聖。佐藤の勢いに気圧され、まだ闘牙とまともに会話すら出来ていない春菜は、不満たらたらの様子で隆聖達に愚痴をこぼす。
「藤城君も人が良すぎるのよ。あんな女放っておけばいいのに」
「おっかねぇよ、村上。お前も交じればいいじゃん」
「嫌いなの!」
「藤城が?」
「佐藤が!」
 まるでケンカのような優と春菜の会話。この二人は仲がいいのか悪いのかよくわからない。とはいえ、よく話している所をみると、お互い嫌いではないようだ。二人の様子に、思わず吹き出す隆聖。ふと目線を動かすと、真琴が物理の教科書を持っているのに気付き、声をかける。
「水澤? どうした?」
「あ、あのね、物理教えてもらいたかったんだけど」
「そうそう。今日の授業、もう訳わかんなくて」
 申し訳なさそうに言う真琴に、春菜もやっと本題を思い出したようだ。
「俺も〜。教えて〜、小笠原センセー」
 猫なで声をあげる優に、春菜がぽつり「キモい」とつぶやき、また二人はぎゃーぎゃー言い合っている。
「お前ら、仲がいいのはわかったから、夫婦喧嘩はいい加減にしろ」
「はあ? 何言ってんのよ、委員長」
「なんでやねん!」
 春菜と優のツッコミがほぼ同時に入るが、隆聖はさらりとそれをかわす。
「見ろ、水澤がおびえてる」
 胸の前に物理の教科書を抱えたまま固まっている真琴を見て、隆聖がそう言う。それに気付いた優の大袈裟なリアクション。
「うわぁお! ごめん、水澤ちゃん。びっくりした? 俺は悪くないよ、全部村上が悪いんだからね」
「それこそ、なんでやねん! ていうか、あんたなんであたしは呼び捨てで、水澤さんはちゃん付けなのよ。差別?」
「いや、区別」
「はあ?」
 また二人の言い合いが始まり、隆聖はバン、と強く机を叩いて立ち上がる。
「お前らいい加減にしろ! 水澤が……」
 そう言って真琴を振り返る隆聖だが、真琴はそんな三人の姿を見ながらくすくすと笑っていた。
「……笑って、ますけど?」
 真顔でつぶやく優。
「……ごめん。なんかお笑いトリオでも見てるみたいで」
「――! トリオ?! なんで俺までっ!」
 真琴はまだ笑っている。彼女の口からそんな言葉が出てくるとは、隆聖にとっては青天の霹靂だ。気が抜けたかのように、力なく椅子に戻る隆聖。
「わ〜い、小笠原も一緒だ〜」
「ごめん、委員長。遠藤のせいで」
「なんだと? お前のせいだぞ、村上」
 二人のやり取りに、隆聖は深いため息をつきながら頭を抱えた。
「ほんとに、マジでいい加減にしてくれ。物理教えないぞ」
 その隆聖の一言に、優と春菜はぴたりと口をつぐんだ。二人ともよほど今日の授業がわからなかったらしい。 まだ真琴だけがくすくすと笑っていた。春菜は話題をそらすかのように、隆聖達に問いかけた。
「二人とも、今日部活は?」
「まさっさんが会議だから休み〜。ところでさ、まさっさん能見先生に告ってふられたらしいぜ」
「――!」
 春菜の問いに答える優が予期せぬ話題まで持ち出してきて、隆聖は思わず吹き出しそうになるのを必死でこらえた。まさっさん、とは空手部の顧問で体育教師の佐久間(さくま)征史(まさし)の事で、優は親しみをこめて彼をそう呼んでいる。質実剛健を絵に描いたような、三十歳独身男だ。彼が養護教諭である志麻に好意を寄せているらしい、という噂は聞いてはいたが……。
「え〜? マジでぇ? ていうか、どう考えても無理でしょ。美女と野獣だよ。それに確か能見先生右手薬指に指輪してるから、彼氏いるよ」
「だろ? 玉砕が目に見えてるのに、勇気あるっていうか、無謀っていうか……」
 身もふたも無い春菜の発言に、優も相槌を打つ。志麻の右手薬指の指輪の贈り主を、隆聖はよく知っている。それは彼女の恋人ではなく、ボスである肇だ。もともとあまり《霊力(ちから)》の強くない志麻に、肇が御守りの意味を込めて贈ったブルースターサファイアで 、宝石のパワーをストレートに引き出すために右手薬指にはめているらしい。もっとも、『男よけ』の意味も込められているらしいが。
「そういえば小笠原、さっき自主トレする、って言ってなかったっけ?」
「……じゃあ、今日じゃなくても……」
 思い出したように言う優。それを聞いた真琴がおずおずと辞退しようとするが、隆聖は笑って答えた。
「いいよ、予定変更。トレーニングは家帰ってからもやってるし。それに遠藤、お前は体だけじゃなく、もう少し脳みそも鍛えろ」
「うへえ」
 手厳しい隆聖の言葉に、優は舌を出す。それを見て、また真琴は笑った。春菜は優を見てにやにや笑いながら提案する。
「じゃ、マックでも行こうよ」
「賛成〜。村上のおごりな」
「なんであたしなのよ。遠藤、あんたのおごり」
 隆聖達の返事も聞かず、さっさと歩き出す優と春菜。
「……ったく……」
 呆れ顔の隆聖に、真琴は申し訳なさそうに声をかける。
「ごめんね、小笠原君。迷惑だった?」
「いや、迷惑なんかじゃない。……気にしすぎ」
 少々卑屈な真琴の言葉。隆聖は思わず地を出して強く怒ってしまいそうになるが、それを抑えて苦笑する。
「二人とも置いてくよ〜!」
 廊下から春菜の声がする。隆聖は机の中に残っていた教科書を学生鞄に詰めると立ち上がった。
「はいはい。じゃ、俺達も行くか、水澤」
「うん」
 並んで歩き出し昇降口へ向かう二人。数メートル先では、優と春菜のコントのようなやり取りが続いていて、隆聖は失笑しながら靴を履き替えた。
「あいつら、ほんとに仲がいいんだか、悪いんだか……」
「でも村上さん、遠藤君と喋ってる時が一番楽しそう」
「ま、遠藤もだな。なんだかんだいってお似合いじゃないのか、あいつら」
 そんな隆聖の言葉に、真琴は昨日の春菜の一連の発言を思い出す。
『絶対、小笠原君は水澤さんが好きだって』
 隣で並んで歩いている隆聖の鍛えられた肩が目に入って、思わず赤面する真琴。今まで教室や昇降口で話す事はあっても、一緒に下校した事はなかった。なんとなく周囲の生徒達の視線も感じる。意識するあまり、隆聖との会話が続かなくなって沈黙してしまう。
「水澤? どうかしたか?」
「……え? ううん、何でもない」
 慌てて取り繕う真琴に、隆聖は冗談っぽく返す。
「また具合悪くてぶっ倒れるのかと思った」
「ひどいなあ。……否定は出来ないけど」
「しろよ、否定。そういえばお前、少食だよな。昼飯パン2個ぐらいしか食わないだろ? もっと食えよ」
「え? あれでおなか一杯」
「マジで? 俺なんか昨日調子乗って食いすぎてさ……」
 隆聖の話は続いている。饒舌で、しかもいつもよりくだけた喋り方の彼に真琴は少し驚くが、それも嬉しかった。新しい彼の一面を見られた気がして。いつもの凛とした硬派の優等生の隆聖も素敵だが、明るくどこか茶目っ気のある今の彼も魅力的だ。
「遠藤、作戦成功だね」
「おうよ。かなりい〜感じなんじゃね?」
 笑顔で語り合う隆聖と真琴の姿を気付かれぬようにちらりと振り返り、優と春菜はにやりと笑う。進展の遅い隆聖と真琴を見かねていた二人が仕組んだ展開だった。とはいっても、優も春菜も学年トップの隆聖に物理を教えてもらいたい、否、教えてもらわなければならない状況にあるのは事実だったが。
「ったくよぉ、水澤ちゃん狙ってるヤツめちゃくちゃ多いんだから、早くくっついちまえばいいのに。結構奥手なんだな、小笠原って」
「ま、硬派の委員長様ですから。水澤さんも自分から告るタイプじゃないしね」
「世話が焼けるよな」
「ほんと」
 またちらりと後ろに目をやる優と春菜。視線の先の隆聖と真琴の姿はどこから見ても仲の良いカップルだ。下校中の他の生徒達も遠慮がちに、しかし確実に二人に目線を送っている。たぶん明日には、『小笠原隆聖と水澤真琴はとうとう付き合い始めたらしい』、そんな噂が流れるだろう。とはいえ、二人が噂を流した犯人といっても過言ではないのだが。
「しかしお似合いだよな。ちょい身長差があるけど、まあそれもありだな」
「あんたと小笠原君でも15センチは違うんじゃない?」
「うおっ・・・。お前は痛い所を突く女だな、村上。15センチは言い過ぎ、12センチだ」
 180センチ近い隆聖に対して、優は167センチと高1の男子では平均的な方だ。
「一緒じゃん」
「大いに違う。それに、小笠原がデカいんだよ。俺は今から伸びる予定なの」
「どぉだかねぇ」
 そんな会話をしながら、優と春菜は隆聖と真琴との微妙な距離を保ちつつ、校門を出た。
 平和で平凡な日常の下校風景。真琴が望んでいたこんなささやかな幸せも、まもなく終わりを告げようとしている。 変革の時は、もう目の前に迫っていた。






                                             更新日:
2011/01/24(月)