新宿新都心の高層ビル群にほど近いマンション。地下駐車場に車を停めると、修司と隆聖はエレベーターホールに向かった。訪問先の部屋番号を押すと、しばらくの間をおきインターホンを通してかの人物の声が返ってきた。 
                  「加地か?」 
                  「はい。若をお連れしました」 
                  「入れ」 
                   エレベーターのドアが開き、乗り込む二人。修司は35階のボタンを押す。隆聖は先程から落ち着きない様子だ。 
                  「若? どうかなさいましたか? 
                  「いや、ここ来たの初めてだからさ」 
                  「そうでしたね」 
                   エレベーターの箱はガラス張りだ。隆聖はぴったりとガラスに張り付くようにして外を覗き込む。陽が西に傾きはじめた新宿の町並みが、みるみる眼下に広がっていく。 
                  「相当いい値段だったんじゃねえの?」 
                  「ヒルズ最上階程じゃないって伺いましたけど」 
                  「ふ〜ん。ヒルズでもよかったんじゃねえの?」 
                  「肇様はお嫌いだそうです、六本木」 
                  「へえ、意外」 
                   眼下の景色を見つめながら、隆聖は少し驚く。あのやる事なす事豪快で派手な叔父にしては、意外な事だと思う。 
                  「それに、肇様お一人じゃないですから、新宿の方が色々と勝手がよかったらしいですよ」 
                   そう修司が言い終わるタイミングで、エレベーターが止まりドアが開いた。一フロア一部屋なので、廊下の先には目的の部屋のドアしかない。インターホンを押すと、今度はすぐに反応があった。先程とは違う男性の声だ。 
                  「今開けるよ」 
                   ロックが開く音がして、修司と隆聖は部屋に入った。広い玄関、シューズストッカーの上には、30センチ程の大きなクリスタルクラスターが飾ってある。邪気を祓い、場を浄化するといわれる水晶の原石だ。リビングに続くドアを開け、中に入ると、コーヒーのいい香りが部屋を包んでいた。 
                  「ん、ご苦労」 
                   修司の挨拶に、ソファーにどっかりと深く腰を下ろしていた青年が顔を上げる。鋭いまなざし、くわえ煙草、ボサボサの寝ぐせがついたままの髪、無精ヒゲ、耳にはダイヤのピアスが光り、黒地に銀色の龍の刺繍が入った甚平を肩までまくっている。ヒゲをそって髪を整え、スーツでビシッとキメれば、多くの女性の目を奪って離さないであろう美形の青年だ。しかし今はその格好が、彼の野性味と胡散臭さを増幅させている。彼が小笠原肇。隆聖の叔父であり、志麻や修司を束ねるボスである。叔父とはいえ、年は一回り程しか離れていないので、まだ28歳だ。 
                  「加地」 
                  「はい?」 
                  「なんだ、その柄? お前は『ちびくろサンボ』かっ!」 
                   修司のアロハの柄にツッコミを入れる肇。 
                  「なるほど。ヤシの木と虎ってなんか覚えのある組み合わせだな、って思ったんですよ。そうか、『ちびくろサンボ』ですよね、納得」 
                  「??」 
                  「あら、若。知りません?」 
                   肇と修司の会話についていけずに、隆聖は首をかしげている。 
                  「おう。来たか、お坊ちゃま」 
                   茶化すような口調で、肇は向かいのソファーに目をやり、顎をしゃくる。座れ、と言っているようだ。隆聖は少し緊張しながら彼の向かいに腰を下ろした。修司は肇に一礼すると、ダイニングカウンターの彼の定位置に落ち着いた。 
                  「どうだ、高校生活は?」 
                  「どうも何も、別に中学と変わんねーよ」 
                  「ほお、無理しちゃってまあ。愛しの彼女といい感じだって聞いたぞ」 
                   にやりと笑い、また煙草に火をつける肇。 
                  「はあっ? 何だよ、それっ!」 
                  「志麻がお前のクラスの子から聞いたそうだ。どう見ても両思いだとか、相当力説してたらしいぞ」 
                  「――っ、村上だな……ったく、あのおしゃべりっ!」 
                   小声で吐き捨てる隆聖、しかしその頬は朱に染まっていた。 
                  「バレバレだな。『早く告っちゃえばいいのに』だそうだ」 
                   にやりと、人の悪そうな笑みを浮かべながら紫煙を吐き出す肇。隆聖は照れと恥ずかしさからか、小刻みに肩を震わせながら、ソファーから腰を浮かせた。 
                  「叔父貴っ!!」 
                  「肇」 
                   まるでいたずらっ子をたしなめるように、肇の名を呼ぶ声。すっとその場の雰囲気をやわらげるような、不思議な声だ。 
                  「はい、隆聖君、コーヒー」 
                  「あ、ど〜もです」 
                   線の細い指でシンプルなコーヒーカップが差し出される。ぺこりと会釈した隆聖が顔を上げると、色白で華奢な青年が微笑んでいた。繊細でいて硬質、まるで陶器で作られた人形を思わせる。どこか優雅さや気品さえ漂わせた、こちらも女性ならずとも見惚れてしまう美貌だ。ワイルドでたくましい肇とは対極にいる、中性的で端正な青年である。彼の名は篠崎航太。肇の同居人にして、15年来の親友である。 
                  「航太、おかわり」 
                  「はいはい」 
                   肇が差し出したカップを受け取ると、航太はキッチンに戻っていく。側にいる修司にもコーヒーを出し、彼と談笑しながら肇のおかわりの準備をする航太。サイフォンで入れたキリマンジャロしか飲まないという肇のこだわり(否、わがままと言うべきか)にも慣れた様子で、てきぱきと手際よく準備する航太の様子をリビングから見つめながら、隆聖は思わずぽろりと本音を漏らした。 
                  「航太さん、まるで嫁か召し使いじゃんかよ」  
                  「何だとぉ? お前、いつから俺にそんな口きけるようになった?」  
                   肇が一瞥する。ちらりと睨まれただけで、隆聖は背筋に悪寒が走るのを感じ、軽く身をよじらせた。 
                  「すいません、ウソです」  
                   そう言って身を縮め、コーヒーを含む隆聖。鼻を抜ける香りが心地よく、心が落ち着く。いつも利用するファストフード店のものとは、比べ物にならない程美味しく感じるのは、気のせいではないだろう。 
                  「航太さん、俺の好み覚えててくれたんですね」  
                   話をそらすかのように、隆聖はキッチンの航太に声をかけた。やや薄め、ミルクなし、砂糖一つ、これが隆聖の好みであるが、航太が入れてくれたコーヒーは丁度いい塩梅だ。 
                  「どう? ちゃんと隆聖君の好みになってる?」 
                  「はい、バッチリっす」  
                  「当然だろう」  
                   そう言って威張っているのは、コーヒーを入れてくれた本人ではなく、煙草片手にソファーでふんぞり返っている人物なのだが……。隆聖は、なんだかなぁ、とため息をついた。
                   
                  「ほんと、航太さんってマメですよね……」 
                   それに引き替え……と口から出かかってやめる。薮蛇になる前に。 
                  「何か言ったか?」  
                  「い〜え、何も」 
                   航太がくすくす笑いながら肇にコーヒーのおかわりを持ってきた。 
                  「肇、俺そろそろ稽古行くから」 
                  「おう。加地、送ってってやれ」 
                  「はい」 
                   コーヒーを飲んでいた修司に声をかける肇。修司は嫌な顔一つせずに立ち上がった。 
                  「わざわざいいよ、加地君。バイクで行くし」 
                  「つーか、帰りに俺の煙草買って来い」 
                   そう言って修司に無造作に一万円札を渡す肇。それを受け取り敬礼する真似をする修司。 
                  「いえっさー」 
                  「……ったくもう」 
                   航太はなかばあきれたように笑うと、携帯電話を胸ポケットにしまう。 
                  「じゃ、お願いしようかな」 
                   航太の言葉に、修司はうなずいて先に玄関に向かった。 
                  「じゃあ、行って来るね」 
                  「おう」 
                  「いってらっしゃい、航太さん」 
                   航太は部屋を後にする。二人きりになり、何となく気まずいような雰囲気が流れ、 何から話したらいいのかわからず、隆聖はしばらくうつむいたまま沈黙した。肇はずずず、とわざとらしく
                  コーヒーをすすり、カップを置くと、おもむろに切り出した。 
                  「で、隆聖。緊急事態の概要を簡潔に報告しろ」 
                  「……今日クラスに転校生が来ました。普通の《気》の持ち主ではありません。《英》の手の者かと。これがそいつのデータです」  
                   肇の真剣な口調に、隆聖も自然と背筋を伸ばし敬語になる。鞄から志麻にプリントアウトしてもらった闘牙のデータを取り出し、肇に手渡した。A4の用紙に目を落とした肇の表情が一瞬固まったように見えた。 
                  「叔父貴?」 
                  「……隆聖、彼女の様子は?」 
                  「今の所は変わりありません」 
                  「……しかし、こうなると時間の問題だな」  
                   データ用紙を投げ捨てるようにテーブルに置く肇。その表情からは、いつもの余裕ある薄笑いが消えている。眉間に深い皺を寄せたまま、コーヒーカップに手を伸ばす。 
                  「じゃあ、やっぱり?」  
                  「ああ、間違いない。『藤城』はあの妖怪ジジイの苗字だ。……いよいよ来たようだな」 
                   肇の言葉に隆聖も緊張を隠せない。右の眉尻の傷が、ちりちりと痛んでくる。もう、8年も前の傷なのに。隆聖は指で傷を押さえた。 
                  「痛むのか?」 
                  「……少し」 
                  「隆聖」  
                   肇の呼びかけに顔を上げると、真剣なまなざしが隆聖を捕らえていた。 
                  「まだあっちも様子見だろう、一応《休戦協定》もあるしな。加地もなるべく学校近辺に張らせるし、 俺も一度家に戻って兄貴と相談する。だがな、隆聖」
                   
                   一呼吸置いて、続ける肇。 
                  「志麻もいるとはいえ、学校内で彼女を護れるのはお前だけなんだからな。そこん所、肝に銘じておけ」 
                  「……はい」 
                  「どうした、怖気づいたか?」 
                  「――! そんなんじゃないっ!」 
                  「ならいいが」 
                   肇はおもむろに立ち上がると、自室に入っていった。灰皿の煙草から煙が上がるのを、隆聖は睨む様に見つめていた。テーブルの上のデータ用紙にふと目を移す。写真の闘牙は、にっこりと 爽やかに微笑んでいる。その笑顔が癪に障る。 
                  「ちっ。人畜無害そうな笑顔しやがって」 
                  「なんだ、優等生仮面、人の事言えるのか?」  
                   自室から戻ってきた肇は、もういつもの表情に戻っていた。右手には一冊のファイルを持っている。 
                  「……8年か。ヤンチャ坊主だったお前も、泣き虫だったお嬢ちゃんももう高校生か。早いもんだ」 
                  「オヤジくさいよ、叔父貴」  
                   ソファーに戻りファイルをめくる肇の指は、一枚の写真のページで止まる。懐かしそうなやわらかい表情で見つめるその先に写っているのは、30代ぐらいの優しそうな女性と、小学校低学年ぐらいのかわいらしい女の子だ。母娘だろう、よく似ている。うさぎのぬいぐるみを抱えた少女は、にっこりと微笑んで母に抱かれている。 
                  「このまま成長してたとしたら、さぞベッピンさんになってるんだろうなぁ。どうだ?」 
                  「……知らねえよ」  
                   ぶっきらぼうにそう言って視線をそらす隆聖だが、その桜色に染まった頬が全てを物語っていて、肇はくすっと笑った。 
                  「そろそろ会いに行くか」 
                  「――!!」 
                   肇の言葉に、隆聖の表情が一瞬凍りついた。テーブルに手を付き、身を乗り出す。 
                  「叔父貴っ!」 
                  「心配するな、お嬢ちゃんにじゃない」  
                   肇の視線は写真の中の母親に向いている。 
                  「今、中野の東郷記念病院に入院してる。俺の初恋の人だ」  
                  「はあっ?!」 
                  「はは、冗談だ、本気にするな」 
                   笑いながらそう言って写真を見つめる肇の瞳は、隆聖が今まで見た事もない ぐらいに優しい色をしていた。 
                   
                   
                   
                   時は少々遡り、隆聖が肇のマンションに向かっていた頃。目的の東郷記念病院に到着した真琴。 
                   顔なじみのナースに挨拶しながら、母のいる病室のドアをノックした。 
                  「はい、どうぞ」 
                  「ただいま」 
                  「おかえり」  
                   ベッドの上で本を読んでいた母・静佳がこちらを向いてにっこりと微笑んだ。とても高校生の娘がいるようには見えない、若々しく優しげな印象の女性だ。いつもより顔色が良く、その表情も明るいのに気付く真琴。 
                  「お母さん、何か良い事でもあった?」 
                  「ええ、来週には退院出来るって、先生が」 
                  「本当? 良かった」 
                   静佳の言葉に、真琴の表情も明るくなった。元々心臓が弱い上、父・真一が亡くなってからは 女手一つで自分を育ててくれた母。特に、ここ数年は入退院を繰り返すような状態だった。慣れたとはいえ、 アパートでの一人の夜は寂しくて眠れない時もあった。真琴は軽くため息をついて、ベッドサイドの椅子に腰を下ろした。
                   
                  「なぁに、ため息なんかついて」 
                  「なんか今日は疲れちゃった」 
                  「学校で何かあったの?」  
                   静佳は読んでいた本に栞を挟み、サイドボードに置いた。真琴は紅茶を淹れる準備をしながら答える。  
                  「今日ね、うちのクラスに転校生が来たの。ちょっと小柄だけど、ジャニーズ系のかっこいい男の子。まあ、あたしの好みじゃないんだけど」 
                   真琴の言葉に思わず笑う静佳。学校では口数少なく周囲に合わせてはいるが、母の前ではその言葉も率直すぎるぐらいだ。 
                  「でね、女子は群がっちゃって質問攻めだし、男子は怖い顔で睨んでるし。授業もみんなそっちのけ」  
                  「へえ、そんなにかっこいいの?」  
                  「うん、あたしは興味ないけど」 
                  「わかったわよ。だって真琴は委員長が好きなんだものね?」 
                  「ええっ?! そんな事言ってないよ」 
                   真琴の紅茶を淹れていた手が止まった。静佳はティーポットを真琴から受け取ると、二つのカップに注ぐ。  
                  「わかるわよ、あなたの話聞いてれば。あなたが話題にする男の子って、委員長ばっかりだもの」 
                  「……そんな事、ないけど……。だって、唯一まともに話せる男子って、小笠原君しかいないし……」 
                   語尾がごにょごにょとトーンダウンしていく真琴、しかしその頬は桜色に染まっていて、肯定しているのと同じだ。 
                  「ああ、そういえば小笠原君っていうんだっけ」 
                  「うん、なんで?」  
                   母の表情が微妙に硬くなったような気がした。それは真琴でなければわからない様な、本当にわずかな 変化ではあったが。 
                  「ううん、何でもない。はい、お茶」 
                   カップを受け取る真琴。もうすでに母の表情は笑顔に戻っていて、真琴もさして気に留めなかった。 
                  「話がズレちゃった。それでね、何かその転校生が引っかかるの。会った事はないはずなんだけど、気になるの。それも悪い方」 
                  「悪い方って?」  
                   静佳が紅茶を飲みながら尋ねる。真琴は両手で包んだカップの琥珀色の水面を見つめながら、ぽつり とつぶやいた。 
                  「なんか、怖いっていうか……、なんとなく不安なの。藤城君、あ、その子、藤城闘牙っていう んだけどね」 
                   不意にガチャン、と音がして真琴がふと目線を上げると、ベッドの上のテーブルが紅茶色に染まっていた。 
                  「お母さん?」 
                   静佳の手からカップが離れ、テーブルに倒れたようだった。 
                  「大丈夫?」  
                  「……ええ。ごめんね、手が滑ったわ」 
                  「布団は? 濡れてない?」 
                  「大丈夫」 
                   そう言って微笑む静佳だが、その表情はわずかに曇っていた。テーブルを拭くと、静佳はベッドから降り、窓際の洗面所で 手と布巾を洗っている。そんな母の背中が、なぜか不安に震えているように見えて、真琴は身震いした。自分が漠然と感じ
                  ている不安と同じものを、母も感じているのではないか、そう思う。しかし、声をかけたいのにかけられない。それを確か める事さえ怖くて出来ない。 
                   抗いきれない大きな嵐は、もうすぐそこまで来ている。直感的に真琴はそう思い、その小さな 体をまた震わせた。  
                   
                   
                   
                   夕食を済ませお茶を飲んでいた静佳は、不意に大きなため息をついた。時計の針は、6時を回った所だ。 娘・真琴はすでに家路についた。窓の外に目をやると、西の空は鮮やかな茜色に染まっていた。どこか不気味ささえ感じさせるその空の色は、記憶の奥底に眠らせた光景を思い出させる。 
                  「嫌な色……」  
                   静佳はサイドボードの引き出しから手帳を取り出す。その中に挟んである一枚の写真に目を止め、 またため息をついた。  
                  「……真一さん、お願い、あの子を守って……」  
                   写真に語りかけるように、そうつぶやく静佳。少し傷みが目立ち始めてきたその写真には、30代半ばぐらいの優しそうな男性の笑顔。静佳は写真を大切そうに握りながら、祈るように目を閉じた。 
                   
                   
                       *     *     *  
                   
                   
                   それから1時間程後、自宅アパート前に着いた真琴。その右手にはスーパーのレジ袋が下げられている。 コンビニ弁当も味気ないし、一人で外食というのもなおさらつまらない。料理が趣味・特技という訳でもないが、
                  小さい頃から台所に立っていた真琴には、自炊も苦ではなかった。 階段を上ると、廊下の一番奥の部屋へと向かう。 
                   ふと見ると、空は真っ赤な夕焼けから紫色へのグラデーションへ変化している、まるで夜のカーテンがゆっくりと下りてくるように。きれいだ、と思う反面、なぜか怖いとも思う。理由はわからない。 
                  「ただいま」  
                   そう言って部屋へ入る真琴。答えはないとわかってはいるが、いつもの癖だ。玄関を上がってすぐに小さな台所があり、その奥に六畳間が二つある、築30年近い年代物のアパートだ。
                  レジ袋を台所のテーブルの上に置き、まず一番に父の仏壇に向かった。仏壇といっても小さなテーブルに位牌と写真、線香立てと花瓶がある程度の物だ。  
                  「ただいま、お父さん」 
                   写真の父は穏やかな笑顔を浮かべている。父が亡くなったのは8年前、交通事故だった、というのは母から教えられた事で、真琴には父が亡くなったという実感は全くなかった。というのも、8年前の記憶の一部は、まるでデータを削除されたかのように抜け落ちている。この記憶の欠落と父の死には関連がある、そう真琴は確信していたが、それを母に確かめる事は怖くて出来なかった。 
                   仏壇に手を合わせ、ため息をつく真琴。今日は知らず知らずにため息が多くなる。言いようのない不安を振り払うように真琴は大きく頭を振ると、立ち上がり襖を開け奥の六畳間に入り、制服からジャージに着替えた。 
                   手早く準備を済ませ、夕食をとる真琴。暖めなおしたご飯と、インスタントの味噌汁、野菜サラダ、そして軽く 炒めたウインナーを添えた目玉焼き、というシンプルなものだ。嫌いな食べ物はない方だが、だからといって大好物もない。というより、『食』というもの自体に真琴はあまり興味がないのかもしれない。クラスメイトが
                  『○○のパスタがおいしい』だの、『○○のケーキがおいしい』だの喋っていても、関心は向かなかった。 
                   何気なくつけたテレビでは、クイズ番組でいわゆる『おバカキャラ』タレントが珍回答を繰り返す映像が垂れ流されている。 
                  「……つまんない」 
                   真琴は箸をくわえたままリモコンを探す。母がいれば、『お行儀悪い事しないの』と、注意されるのだが。 一人の食事には慣れているはずなのに、今日はやけに寂しさが募る。
                  チャンネルを変えてみても、似たようなバラエティ番組や絶叫するアナウンサーのスポーツ中継ばかりで、 真琴はニュースにチャンネルを合わせた。40代位のスーツ姿の男性アナウンサーが、落ち着いた口調で淡々と
                  ニュースを読んでいる。NHKが観ていて一番安心する、などとクラスメイトに話したら、確実に浮いてしまう だろうが、それが事実だった。  
                   この自分の異質感は何なのだろう、そう真琴はつくづく思う。明るく無邪気に語り合う女子生徒達とは、自分は確実に違う。持って生まれた性格というよりも、自分の内にある《闇》がそうさせるのではないか、と思う。そ してその《闇》は欠落している記憶に直結している、そう思うのだ。  
                   ブラウン管の中では、とある地方都市で起きた通り魔事件のニュースが流れていた。駅へ向かう連絡通路には血痕が点々とし、鑑識が写真を撮る映像の後、興奮した様子で語る目撃者の証言が流れた。真琴は思わず顔をしかめた。 
                  「やだなぁ。最近、こんなニュースばっかり……」 
                   昨今のニュースといえば、通り魔事件や連続放火事件、そして親殺し・子殺し・無理心中といった事件が多いような気がする。なんとなく、世の中全体がおかしい。 
                  「……おかしいよ、こんなの」 
                   そうつぶやいた真琴。しかし次の瞬間だった。 
                  『世の中なんて、こんなものだよ』  
                   そんな言葉が聞こえた気がして、真琴は我が耳を疑った。驚いて周囲を見回すが、誰もいる訳がない。 しかし、空耳にしてははっきりしすぎていた。 
                  「……?!」  
                   幻聴、なのだろうか。子供なのか大人なのか、男性なのか女性なのか、それすらわからないが、確かにはっき り聞こえた。 
                  「……なんなの?」   
                   言い様のない不安と孤独が真琴を包む。小刻みに肩を震わせた真琴の耳に、今度は違う音が飛び込んで きた。 
                  ――カン、カン、カン、カン――   
                   規則的に刻まれる音。何の音だろう。不安が増した時、ふとその音の正体に気づく。それは、アパートの階段を昇降する靴音だ。鉄筋むき出しの階段は、ヒールや革靴の足音が響くのだ。 
                  「……なんだ」  
                   ふう、と安堵のため息をついた真琴。しかし、次の瞬間ある事に気づいた。このアパートには階段は一つ、そしてこの部屋は廊下の一番奥、つまり階段から一番遠くにある部屋なのだ。今までこんなにはっきり足音が
                  聞こえた事などなかったはずだ。しかも、テレビもついている。静かな真夜中ならいざ知らず……。 
                  「――やだ……」  
                   今にも泣きそうな表情で震える真琴。金属的な音は、今度はコンクリートの床の上を歩いているような音に変わる。 
                  ――コツ、コツ、コツ、コツ――  
                   規則的な靴音は、段々近づいてくるようだ。真琴の不安と緊張がピークに達した時だった。 
                  「――!!」  
                   携帯電話の甲高い呼び出し音に、真琴はびくりと肩を震わせた。心臓が壊れそうなぐらい激しく鼓動しているのがわかる。テーブルに置いていた携帯電話に目をやると、画面には見た事のない番号が表示さ れていた。やりすごそうと思っても、呼び出し音は鳴りやまなかった。恐る恐る電話に出てみる。 
                  「……はい」  
                   震えた、蚊の鳴くような声の真琴。返って来た声は、真琴が予想もしない相手のものだった。 
                  「水澤?」 
                  「――え? 小笠原、君?」  
                  「ああ。ごめん、なんかタイミング悪かったか?」 
                   真琴がなかなか電話に出なかったのを気遣ったのか、隆聖は少しバツの悪そうな声色だ。 
                  「ううん、大丈夫。……でも、どうして?」  
                   5月も半ばを過ぎた今でも、真琴の電話帳に入っているクラスメイトの番号やアドレスは片手で足りる程度、しかも隆聖の番号など知りたくても自分から交換出来るはずもなかった。 
                  「ああ、村上に聞いた。ていうかクラスでお前だけだぞ、俺に番号教えてくれなかったのは。そんなに俺って信用ないのか?」  
                   隆聖の問いに、真琴の頭は真っ白になる。ただでさえ思いがけない電話に驚いているのに。 
                  「――えっ?! そっ、そんな事っ……」  
                   それ以上言葉を返せない真琴に、隆聖は明るく笑って返す。  
                  「ははは、冗談、冗談。さっき学校で言い忘れた事があってさ。金曜のホームルームの個人発表、水澤の番だから。ま、それだけなんだけどさ」  
                   隆聖の明るい声に、真琴は大きく安堵の息を吐いた。 
                  「何そんなに大きなため息ついてるんだよ。そんなに発表するの嫌なのか?」 
                   回線ごしの真琴の盛大な吐息を、隆聖はどうやら勘違いしたようだ。真琴達1年B組では、毎日のホームルームで一人ずつ、3分程度の発表をする事になっている。発表内容は自由なので、皆自分の部活の話や趣味の話などをしている。担任の上条が生徒同士がお互いの性格を知り、
                  親睦を深めるため、といって始めた事だが、クラスメイトの前で自分の話題を語るなど、どうも真琴には気乗りがしなかった。しかし、とうとう真琴にも順番が回ってきてしまったらしい。 
                  「ち、違うの……。あ、ううん、違わないけど」  
                   意味不明の言葉を言っている事に言い終えてから気付く。しどろもどろになる真琴だが、隆聖はやさしい言葉を返してきてくれた。 
                  「そんなに難しく考えるなよ。別に何の話でもいいんだから。俺なんか、家で飼ってる犬の話だったし」 
                  「うん、覚えてる。アラスカン・マラミュートだったよね」 
                  「ああ。でかくて力も強いから、散歩がトレーニングになって丁度いいって話。みんなに『小笠原らしすぎる』って言われたよな」 
                  「うん、そうだったね」 
                  「お前の場合なら……そうだな、例えば今読んでる本とか、好きな作家とか。そんな話すればいい だろ?」  
                   さりげなくアドバイスしてくれる隆聖に、真琴の顔はほころんだ。 
                  「うん、そうだね。ありがとう」  
                  「あ、水澤。ちゃんと俺の番号登録しておけよ」 
                  「うん」  
                  「じゃあな、明日また学校でな」 
                  「うん、ありがとう」 
                   電話を切る真琴。もう足音らしきものも聞こえない。先程までの言いしれない不安は、隆聖の声で吹き飛んでいた。真琴は着信履歴から隆聖の番号を電話帳に登録した。 
                  「これでよし、と」  
                   決定ボタンを押して、もう一度電話帳を確認する。一番初めに『小笠原隆聖』の名前が出てきて、真琴は知らず微笑みをこぼした。  
                  「あー、冷めちゃった」 
                   味噌汁に口をつけると、だいぶ生ぬるくなっていた。しかし、なぜか美味しくない、とは思わなかった。人肌ぐらいのそれは、寂しさと不安で押しつぶされそうになっていた真琴の胃と心に、ゆっくりと、しかし確実に広がっていった。 
                   
                   
                   
                   携帯を切り、隆聖は軽くため息をつく。右眉の古傷が痛みだしてから真琴の事が心配になり、いてもたってもいられなかった。しかし、どうやら杞憂だったようだ。傷の痛みも落ち着いてきた。 
                  「……流石、優等生仮面。言う事がいかにも委員長ね」 
                  「――!! 聞いてたのかよ?!」 
                   突然背後から声がかかり、振り向いた隆聖の視線の先には、含み笑いしながら志麻が立っていた。白衣を脱いだ彼女の服装は、オーソドックスなOL風ではあったが、それでもそのスタイルとセンスの良さが垣間見えた。 
                  「残念、聞こえちゃった。小笠原君ってば、やっさし〜」  
                   茶化すような志麻の言葉に、隆聖はわなわなと震えていた。肇に真琴との通話を聞かれたくないがため、わざわざ部屋の外に出たというのに……。とはいえ、通話に気を取られ、エレベーターの気配に気付かなかった自分も迂闊ではあったが……。
                   
                  「まだまだ甘いな、委員長」 
                   隆聖の考えを読んだかのように、志麻は笑いながらポン、と彼の肩を叩いた。まるで、さっき保健室で彼女をからかったお返しとばかりに。  
                  「来たか、志麻」  
                   丁度タイミングよく、肇が玄関のドアを開けて出てきた。さっきまでの胡散臭くだらしない格好ではなく、軽く髪を整え、白シャツにブラックデニム姿だ。第3ボタンまではだけたシャツの胸元にはミラーのサングラスが引っ掛
                  けてある。シンプルな格好だが、184センチの長身の彼によく似合っていた。ただ、無精ヒゲだけはそのままだ。 しかし、それも彼の魅力であるワイルドさをより一層引き立てていた。 
                  「加地も下に戻ってきた。飯食いに行くぞ」 
                  「せっかく航太さんの作った飯食えると思ったのになぁ」 
                   つまらなそうにそうもらす隆聖。イタリア料理店でアルバイトをしていた事もある航太の料理の腕は、セミプロと言える。肇の家に来ると、必ずと言っていい程ご相伴にあずかっていた隆聖としては、かなりの不満であった。肇は冗談っ
                  ぽく顔をしかめて言い放つ。 
                  「お前に航太の飯食わせるなんて、百万年早い!」  
                  「ひでぇ! 叔父貴ばっかずるいっ!!」  
                   叔父と甥のじゃれあいに、志麻は苦笑をもらした。 
                  「航太さんはバイトですか?」 
                  「いや、今日は稽古だ。今日が新しい稽古場に移って初めてらしい。それに次の公演の配役発表とかあるから遅くなる、って言ってたな」  
                  「今度は何するんでしょうね?」  
                   航太が所属している『劇団カレイドスコープ』は、メンバーの平均年齢30歳、アクの強い役者ばかりそろった、 小劇団界ではかなり名の知れた存在だ。志麻も一度公演を観てから彼らのファンになり、毎公演欠かさず観劇している。 
                  「さあな。あそこの座長、節操なしだからな。また演出とか言って、航太にいろんな事して遊ぶんだろ」  
                   肇はアメリカ人のようにオーバーに肩をすくめてみせた。事実、今までの公演での航太の役は、女役もあればお小姓役、サイボーグ役、人々を惑わす妖艶な悪魔役など、特殊な役が多かった。しかし、それも彼の美貌と演技力あってこそのものだが。
                   
                  「俺まだ観た事ねーよ。叔父貴、今度俺も連れてって」 
                  「ったく、お前なあ……」   
                   呆れた様にため息をつく肇。緊張感がないというか、何というか……。 
                  「緊急事態だ、って泣きついてきたのは、どこのどいつだ? あ?」  
                  「――!! 泣きついてなんかねえよ!」 
                  「うんにゃ、半べそだったぞ」 
                  「んな訳あるかっ!!」   
                   緊張感を削いでいるのは肇も同じなのだが、彼はそういう言動が常である。真面目なのかふざけているのかよくわからない、人を喰ったような言動が彼の普通なのである。 
                  「……あのー、肇様、隆聖」  
                   まるで子供のような二人の言い争いに、志麻はため息混じりに声をかけるが、まるで聞こえていなかった。二人の声に紛れるようにエレベーターのベル音が聞こえ、志麻が振り返ると、セブンスターのカートンを抱えた修司が立っていた。 
                  「加地君」 
                  「あ、志麻さん。来てらしたんですか」   
                   志麻の姿を認めると、にっこりと微笑む修司。下がり気味の眦がますますゆるんだ。しかし、志麻の後ろの二人を見て、がくっと肩を落とす。 
                  「……またやってらっしゃるんですね。いつもの事ですけど」 
                  「ほんと、よく飽きないわよね」  
                   苦笑いする志麻。修司はすうっと大きく息を吸うと、 
                  「肇様! 若!」  
                   腹式で二人の名を呼ぶ。肇は怪訝そうに振り返るが、自分の煙草のカートンを抱えた修司の姿を見て、にやりと笑った。 
                  「おお、加地、ご苦労。飯だ、飯。行くぞ」 
                   と、変わり身早く告げると、一人スタスタとエレベーターに乗り込んだ。あまりの早業に、隆聖はぱちぱちと目をしばたかせている。まるで何が起こったのか事態がつかめていないかのような表情だ。志麻は軽くため息をつくと、肇の後に続いてエレベーターに乗り込む。 
                  「ほれ、坊ちゃま、早く乗れ。置いていくぞ」  
                   一人廊下に取り残される形になった隆聖を尻目に、そう言ってエレベーターの扉を閉める肇。 
                  「――! ちょ、ちょっと、叔父貴っ!」 
                  「な〜んちゃって」 
                   そう言いながら扉が閉まる直前、足を出してでドアを止める肇。まるでヤンチャないたずらっ子に翻弄されているようだ。 
                  ――まったく、なんなんだ、この人は! いい歳してめちゃくちゃだ!   
                   心の中でそう叫ぶと、隆聖はエレベーターに同乗する。中では肇がにやにやと笑いながらポケットから煙草を取り出してくわえた。  
                  「肇様、共有スペース内は禁煙ですよ。また管理人に怒られますよ」 
                  「へいへい。まだ火はつけねえよ」  
                   と言いながらも、その修司の言葉がなかったらすぐにも火をつけそうな雰囲気だった。降下する箱の中で、志麻が尋ねる。 
                  「ところで、何食べに行くんですか?」 
                  「中華」 
                  「えー、俺寿司がいいな」  
                  「却下」  
                   隆聖の要望も軽くいなされる。志麻も修司も不満はないようだった。いや、あったとしても結局肇は取り合わないだろうし、また彼らがそれを口に出す事は決してないだろう。肇は彼らの主であり、その言葉は絶対だ。例えそれが、ほんの些細な事だとしても。
                  まだぶ〜ぶ〜文句を言っている隆聖に、肇は仕方なさそうに言う。 
                  「とりあえず今日は上限なしにしてやる」 
                  「マジで? やったあ!」  
                  「現金すぎよ、隆聖」 
                   さっきまでさんざん文句を言っていたのを一転させ、歓喜の声をあげる隆聖に、志麻はあきれたように つぶやく。 
                  「三人とも、食える時に食って英気を養っておけ。これからが本番だからな……」  
                   肇の言葉に、三人の肩は反応する。隆聖は途端に苦い表情になるが、肇は彼の前髪を、まるで犬でも 撫でるかのようにわしわしとかき混ぜた。 
                  「そう怖い顔するな。ま、あいつらが本格的に動くのはまだ先だろうが、こっちも打てる手は打っておかねばならんだろう 」 
                   煙草を噛んで揺らしながら、腕組みしてつぶやく肇。その顔には不敵な笑みが浮かんでいた。  
                  「とりあえず、腹が減ってはなんとやら、だからな」  
                   
                   
                   
                   
                   
                   
                  
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