お医者様でも草津の湯でも……



神崎和仁(かんざきかずひと)の受難


 だるい身体を引きずってダイニングにたどりついた俺は、テーブルに並んだ料理に目を見張る。高瀬課長の事だから、こじゃれたアメリカンブレックファースト的なものなのかと思いきや、白いご飯に豆腐とわかめの味噌汁、魚は鯖の塩焼き、卵焼きとほうれん草のおひたし、そして白菜の浅漬け、完璧な和朝食だ。
「……」
「どした?」
 味噌汁を含みながら首をかしげる高瀬さんに顎で促され、俺はテーブルについた。
「はあ」
「なんだ?」
「……いや、つくづくあんたってヤな人ですね」
「ああん? 文句あんのか?
「完璧すぎてグウの音も出ませんよ。……いただきます」
「おう」
 軽く頭を下げて、俺は箸を持つ。味噌汁は風味調味料を使わず、きちんと煮干で出汁を取っている。凝り性の高瀬課長らしく、納得するもののために手間を惜しまない。
「……らしいですね」
「ん? なんか言ったか?」
 わざと聞こえないようにぽつりとつぶやいた俺に、高瀬さんは反応したが、俺は「いいえ」と返し、そのまま黙々と朝ご飯にありついた。
 うまい。素直に美味しいと思う。こんなに美味しい朝食を食べたのは、どれくらいぶりだろう。元カノとの旅行で行った、ちょっと奮発した温泉旅館の朝食より、格段に美味い。
「はあ……マジで、完璧すぎですよ、課長」
「そうか? 俺としては大根おろしも欲しかったがな」
 鯖の塩焼きをつつきながらそうつぶやく高瀬さんだが、その顔はいつもの自信に満ちた笑みをたたえている。
「ところで和仁、今日はどうする? 映画でも見に行くか?」
「は?!」
 唐突につむがれた言葉に、俺は絶句する。なんだ、その恋人同士の休日、しかもお泊り明けみたいな展開は。ないない、絶対ない。
「帰りますよ、もちろん」
「なんだよ、予定あんのか? どうせ家帰ってもゴロゴロしてるんだろ?」
「……ええ、そうですよ。いいじゃないすか、俺が休日どう過ごそうが。日頃から人使いの荒い上司にこき使われてるんで、休みの日ぐらいゆっくり過ごしたいんですよ」
 そう言い終えたちょうどその時、電話の呼び出し音が鳴った。俺のではない、高瀬さんのか。しかし、いつもと着信音が違う。高瀬さんは、俺にちょっと手を上げ頭を下げると、スマホを操作した。
「お帰り」
 電話の相手にそう言った高瀬さんの声と表情は、今まで見た事もないような甘く優しいものだった。
「……ああ、よく頑張ったな。……ああ、すごく良かったよ」
 そう語りかける電話の相手が、高瀬さんの大事な人だろう事は容易に想像がついた。
 なんだろう、どきりとした、というよりも、何か心にちくりと痛みが走るような。痛み、なのか。自分自身でもよくわからない、しかしとてもモヤモヤした感情が、確かに自分の中に芽生えているのを、この時俺は初めて自覚したのかもしれない。
「ああ、大丈夫だ。俺も久しぶりに佐藤先生にご挨拶したいし。……ああ、わかった。じゃあ後でリンクで。あ、一人連れてってもいいか?」
 俺はモヤモヤした感情を抱えながら、黙々と朝食を胃に流し込みながら高瀬さんの会話をわざと聞き流した。嬉しそうな表情でスマホを置いた高瀬さんは、満面の笑みで俺にこう言った。
「予定変更。横浜に行くぞ」
「はぁ?!」
 俺は持っていた味噌汁椀を取り落としそうになる。
「なんすか、それ! 俺は帰りますからね」
「却下。今日は俺に付き合え」
 高瀬さんはにやりと不敵に笑うと、残っていた味噌汁を飲み干し箸を置いて立ち上がった。
 




                                             更新日:
2016/11/17(木)