お医者様でも草津の湯でも……



神崎和仁(かんざきかずひと)の受難


 鼻腔をくすぐるコーヒーの香りと、髪をくしゃくしゃと撫でる感覚。目を開けるか開けないかの微睡みの時間が結構好きだ。
「…おはよう。ふふっ、いやもう昼だな」
 半覚醒状態の耳に飛び込んできたのは、聞きなれた甘いバリトンの声で、俺は一気に覚醒する。いきなりむくりと起き上がると、かの人はおおっ、と小さく声をもらすといつもの不敵な笑みで俺にマグカップを差し出した。
「ほれ、お前の好きなブラジル。ミルク多め砂糖なし」
 なんだよ、完璧じゃねぇか。まったくこの人は、他人の趣味嗜好をよく覚えている。こういう細かい所がこの人が信頼と好意を集める所以であり、俺にとっては憎らしくも思える部分でもある。
「ん、冷めるぞ」
 ずい、と差し出されるマグカップには、ぺろりと舌を出したユーモラスな表情の白黒猫が一匹。俺は思わず吹き出した。
「ちっ、俺の趣味じゃねぇよ」
 じゃあ誰の趣味なんだよ、と俺は心の中でツッコミながら、俺は高瀬課長からマグカップを受け取った。
「あざっす」
「おはよ」
 不機嫌そうな俺を見てニヤニヤ笑う課長、それがまた癪に障る。
 朝は苦手だ。はっきり言って寝起きはよろしくないと自分でもわかっている。しかも、今日はあろうことか、決してやるまいと思っていた高瀬課長の部屋のベッドで目覚める、という大失態だ。
「なんだ、そんなに不満か? あれでも足りなかったか?」
「ちっ。またですか。なんなんですか、あんたのその自信過剰は」
 半ば吐き捨てるようにそう言う俺の髪を、まるで子犬にするかのようにわしゃわしゃと撫でる課長。ノーダメージか、まあ当然だろうな。
「……マジで腰痛えんすけど」
 ベッドに起き上がったのはいいが、そこからどうにも動けない。元々の寝起きの悪さだけが原因ではない。ミネラルウオーター片手のバスローブ姿で俺を見下ろしているこの人が元凶に決まってる。
「疲れてる時の方が燃えないか? お前めちゃくちゃ乱れてたし、すげえよかったから俺もちょっときばりすぎた」
 思い出し笑いはやめて欲しい、マジで。てか、一人だけシャワー浴びやがって、と思った俺だったが、ふと見ると身体も綺麗だし、きちんとTシャツを着て寝ていたようだ。シャワーを浴びた記憶も、着替えした覚えもないが。俺がTシャツに触りながら怪訝そうな表情をしているのに気づいたのか、課長から言葉が降ってくる。
「それも俺の趣味じゃねぇからな」
 よく見るとTシャツも気持ちよさそうに眠る白黒猫、マグカップと同じ猫のようだ。明らかに高瀬課長の選択ではないようだ。という事は、女からのプレゼントかよ。
「立てるか? 飯、出来てるんだけど食わないか?」
 あまりの言葉にびっくりして、俺は無言の真顔で課長を見つめてしまった。
「どうした?」
「……いえ。課長がキッチンに立ってる姿、想像つかなかったんで」
「失敬な。これでも『Bianco』一号店のオープン店長だぞ」
「……そうでしたね」
 俺はだるい身体を無理矢理動かして、課長の後に続いた。



 
 




                                             更新日:
2014/03/21(金)