「お互いの気持ち……、ねぇ……」
麻里子の家から自分の家に戻った俺は、ベランダで煙草をくゆらせながらため息をついた。気付けば最近の俺は、ため息と独り言ばかりだ。
土曜日の午前10時、ベランダから見下ろした先の公園では、子供達が走りまわるその脇でママ友達が話の輪を咲かせている。ありきたりな、平和な土曜日。なのに俺は、デートする彼女の一人もいる訳でなく、こうやって半ば二日酔いの頭を抱えながら煙草をふかしている。しかも、夕方からは仕事ときたもんだ。
「はぁ〜あ……」
またため息が出た。今の会社に転職して半年、だいぶ慣れてきたし、仕事も楽しい。向き不向きは別として、何よりやはり自分は飲食の業界から離れられないと実感している。これからも続けていける、続けていきたい仕事だと思う……そう、ただ一点を除けば。
確かに高瀬課長の仕事ぶりは尊敬している。人一倍タフで、冷静さと大胆さを兼ね備えた上、信賞必罰、リーダーにふさわしい人だと思う。上司として、尊敬できる人物だが……。
「なんで、こうなっちまったんだろ……」
成行きとはいえ、高瀬課長と寝てしまった事を激しく後悔している。しかも、たった一度だけなら、まだ酔った勢いだったと言えるが、その後もズルズルと関係を続けてしまっている。自分でもよくわからない。こんな関係が続く訳はない、早くピリオドを打たなければいけない、そう頭ではわかっていても、体はあの人を拒絶する事が出来ない……。
「マジで、やばいな……」
俺ははまり込んだら抜けられない泥沼に、もう膝まで浸かっている。もがいてもがいて抜け出るか、それとも……。
俺はぶるぶると頭を振ると煙草をもみ消し、ベランダから部屋に戻る。夕方までまだ時間はあるから、もう少し寝よう。こんな気持ちでヘルプに出たら、ヘマでもやらかしそうだ。それだけは俺の飲食業としてのプライドが許さない。
ベッドにもぐりこんだ俺に、すぐに強烈な睡魔が襲いかかってきた。そいつは、どうしても抗えない、まるで俺にとってのあの人のようだった……。
☆ ☆ ☆
うちの会社の看板店舗であるイタリアンレストラン『Bianco』2号店は、俺の家から3駅という距離だ。近くに大学や専門学校が多い地域にあるから、当然バイトも学生が多い。だから、夏休み期間である8・9月は帰省してしまうバイトが多く、どうしても人員不足に陥りやすい。今日は一番稼ぎ時の土曜日のディナータイム。あまりにも人が少なくて店が回らない、という店長の泣き言に、苦い顔をした高瀬課長がせっかくの休日の俺にヘルプ指令を出したのだ。
「……はぁ」
「悪いな、神崎」
時計の針は23時を過ぎた。最後のお客様を笑顔で見送り、入り口の札を『APERTO』から『CHIUSO』に返し、ドアを閉めた。思わずため息をついた俺の背中に、店長である佐々木が声をかけてきた。年は俺と一緒だが、社歴が長いから俺には少し高圧的な態度をとる。いわゆる、上には諂い、下には威張るタイプだ。
「いや、これも仕事のうちだよ」
心にもない言葉を吐きながら振り向く俺の顔は、いつもの営業スマイル。どんな時でもはりついてやがるから、我ながらすごいと思う。
「いや〜、まいったよ。主力のバイトみんな一気に帰っちゃうからさぁ。残ってるのはまだ使えないのばっかりで。お前が来てくれてほんと助かったよ」
バイト達がみんな帰って残っているのは社員だけになったからか、佐々木の口からはとんでもない言葉が飛び出した。悪びれもせず言いやがって。バイトの帰省の日程なんて、上手く調整するのも店長の仕事のうちだろーが。それに『使えない』のは、お前が自分のお気に入りばっかりシフトに入れてるからだ。今日いたバイト達もちゃんと指導して数こなせば、それなりのレベルになる子達なのに。ったく、お前がしっかり仕事しないからだろ!
「そうかな? みんな丁寧な接客してるいい子だったけど」
さらりと嫌味を言ってみる。まあ、鈍感な佐々木には通じないだろうけど。それに、なんだかんだ理由つけて厨房から出て来たがらないこいつに、ホールのバイトの動き、ましてやお客様の反応なんてわかる訳はない。正直、こいつが店長やってる限り、この店は下がるだけだな、と思う。
「じゃ、悪い、お先」
そう言いながらギャルソンエプロンを外した俺は、次の瞬間我が耳を疑った。
「今から飲み行かないか?」
「今からって。お前、閉店処理があるだろ」
「んなの高橋にやらせときゃいいんだって。この前、めっちゃかわいい子がいる店見つけてさぁ」
ぎゃはは、と下品に笑う佐々木。まったくなんてやつだ。なんでこんなのが店長やってられるのか。やばいだろ、これじゃ……。流石に一瞬だけ眉をひそめた俺の耳に、次は聞きなれたバリトンの声が飛び込んでくる。
「悪いな、佐々木、神崎は先約があるんでまた今度にしろ。それより、お前、高橋1人に精算もメンテも押してつけてないで、ちゃんとやれよ。査定下げるぞ」
突然の言葉に佐々木が驚いて振り向く。仏頂面の高瀬課長が、ボールペンとファイルを片手に立っている。
「た、高瀬さん……。あ……、っはは、じょ、冗談ですよ!」
取り繕う佐々木に冷たい視線を送る課長。いつからいたんだ、この人は。
「佐々木、この店、欠品が多すぎるな。お前、ちゃんとABC分析見てるのか? 自店の売れ筋ぐらいちゃんと把握して発注かけろよ。それからな、……」
課長の説教は延々と続いている。現場組の間での『鬼の高瀬』という異名は伊達ではないようだ。さっきまでの態度が嘘のように、佐々木はまるで蛇に睨まれた蛙のように小さくなっている。俺は内心こみ上げる笑いを堪えるのに必死だった。
「神崎、すまんがこれから残業だ」
「は?」
「詳しい話は後だ、行くぞ」
「……ちょ、ちょっと」
文字通り一息つく暇もなく、俺は高瀬課長に無理矢理引きずられるようにして『Bianco』を後にした。やっぱりこの男、鬼だ!!
何が悲しくてディナータイムに働いた後に、合コンでもデートでもなく、事務所でPCとにらめっこしてなきゃならないんだ。今日は土曜の深夜だぞ。しかも、隣にいるのは仏頂面の高瀬課長だから、なおさら性質が悪い。
「……課長」
「んあ?」
視線はPC画面から動かさず、苦虫を噛み潰したような表情のまま、課長が俺の呼びかけに生返事をする。灰皿代わりのコーヒーの缶は、今にも吸殻があふれそうだ。
「査定上げてくださいよ」
俺の言葉に、課長は煙草をくわえたままふっと表情をゆるめて笑った。
なんでも今日の午前中、ゆかりちゃんがうちのホームページのデータをぶっ飛ばしてしまい、高瀬課長はそれから一人でその修復にあたっていたらしい。元凶(と言っては悪いが、彼女はちょっとクラッシャーの気があるから仕方ない)のゆかりちゃんを帰したのは当然といえば当然だが、月曜日から大阪出張の千田主任はともかく、休みの尋さんを呼んで手伝ってもらえばいいのに。そう言った俺に、
「せっかくの家族サービスの時間を潰させる訳にはいかねぇだろ」
と高瀬課長は返した。そんな部下への気遣いも、なんだかんだ言ってもこの人が慕われる所以だといえばそうだが……。
「ちょっと待ってください、じゃあ俺はどうなるんですか?」
せっかくの土曜日の夜に、ヘルプに行かされた挙句、今こうしてつきあわされている俺の立場は?!
「土曜の夜に俺と一緒に過ごせて幸せだろ?」
にやりと笑うこの人は、本当に鬼だ。絶対早く修復して、さっさと帰ってやる!!
そう誓った俺の決意は、脆くも打ち砕かれた……。
「……っあ、っちょっ、と……、待ってっ……」
「却下」
課長のウオーターベッドの上、無理な体勢で課長の肩に右足を抱え上げられ、体がきしむ。それでなくても久しぶりの店舗営業と数時間のPC画面との格闘で、疲労はマックスに達しているというのに、この人は容赦ない。結局作業が終わったのは丑三つ時を回っていて、終電もなくなっていた。無理矢理タクシーに押し込まれ、課長の家に連れ込まれ、そして結局またこうなってしまう。
ローションを塗ったこの人の長い指がやけに卑猥に見える。その指が、俺を……。そう考えて、俺はぞくっと震える。やばい、俺、今何考えてた?
「か、課長っ」
「だから課長はやめろって」
耳たぶを噛まれ、囁かれる。長い指が、つぷ、と俺に入り込んでくる。
「くっ……」
抵抗しようと試みても、楽々とこの人の手はそれを阻止し、指が俺を翻弄する。
「……ん、あんっ……」
俺の口からこぼれるのは、自分のじゃないみたいに甘いため息で。それを聞いた課長は、満足げに笑うと、また俺の耳元で囁く。
「たまんねぇなぁ、エロい声……マジで、かわいいな、お前は」
その甘いバリトンの声が直接脳に響いてくるみたいで、マジでやばい。俺を惑わせる。まるで、それが本当の愛の囁きだと錯覚する。
「・・・和仁」
「っつ、やっ……」
何度思っただろう、これが夢ならいいのに、と。麻薬のように俺を依存させて、骨抜きにして、最後は……。
「……くっ、あ、んたは……ズルい……」
「何が?」
どうせ飽きたら捨てるんだろう、そんな言葉が出かかって、飲み込んだ。これじゃまるで、俺は本当にこの人を……。
押し黙って答えない俺を一旦離し、高瀬課長はワイシャツを脱ぎ捨てるとにやりと笑った。
「ズルくて結構」
それから先は、もうズルズルと課長のペースに引きずられ、俺は意識を失った。
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