お医者様でも草津の湯でも……



神崎和仁(かんざきかずひと)の受難


「おはよ、カズ。よく寝てたわよ」
「……んあ? 俺……」
「ったく、弱いくせに飲みたがるんだから。結局、立石呼んでうちまで運ばせたんだからね」
 だんだん覚醒してくる俺の意識に、麻里子の声が響く。あ、そうか。昨日は麻里子と飲んで、いつものように俺が先につぶれて……。
「ほれ」
 麻里子の家のリビングのソファー、こいつと飲んだ後はだいたい俺はここで覚醒する。むくりと起き上がり、ソファーの肘掛けに体を預けた俺に、麻里子がコーヒーを差し出す。
「ん、さんきゅ」
「……で、どうするの?」
「は? 何が?」
「高瀬先輩との事」
 ぐはっ。あまりの直球に、俺は含んだコーヒーを吹きそうになる。
「……って、お前なぁ……」
「まあ、どう転んでも面白いから、何かあったら報告しなさいよ」
 にやりと笑う麻里子。まったく、他人事だと思いやがって。俺は無言のまま苦い顔でコーヒーを飲んだ。
「失礼。社長、瀬川さんからお電話です」
 コンコンとノックの音の後、立石さんがドアから顔を出した。麻里子の実家は会社の事務所も兼ねている。
「ありがと」
 立石さんから子機を受け取った麻里子の顔は仕事モード、社長の顔になっている。
「はい、お電話代わりました、小早川です。……はい、いつもお世話になっております。はい……ええ、その件ですが……」
 話しながらリビングを出ていく麻里子。俺はその背中をぼーっと見送った。
「……もうすっかり『社長』が板についてますね、麻里子」
「ええ。会社も軌道に乗ってきていますし、もうすぐお父上の3回忌ですしね」
 俺の言葉に立石さんも微笑んでうなずく。男の俺から見てもちょっと怖い外見だが、その笑顔は結構かわいい。かわいい、なんて言うのも失礼だけど。
「あ、立石さん、昨夜はご迷惑おかけしたようで……」
「いえ。いつもの事ですから」
 ぺこりと頭を下げた俺にさらりと言い放つ所は、流石麻里子の右腕、というべきか。俺はぽりぽりと額をかきながら、ふうとため息をついた。
「……まいったな」
「……和仁君、ちょっと感じが変わられましたね」
 不意に立石さんにそう言われて、俺は首を傾げながら彼を見上げる。しかし、いつみてもデカいな、この人は。
「なんだか……すごく幸せそうです」
 その言葉を吐く立石さんの表情が半笑いのように見えて、俺は思わず、
「はぁっ? なんすか、それっ!」
 と声をあげてしまった。まったく、主従揃ってなんなんだ、お前ら!
「失礼。いえ、昨日の様子がいつもと違いましたから」
「……いつもと、違ったって……?」
 やばい、昨日の記憶なんて、麻里子にガンガン冷酒を注がれた後の事はほとんど覚えてないぞ……。何か、とんでもない事を口走ったような気がしないでもない……。たぶん青くなっているだろう俺を見下ろして、立石さんはふふっと笑った。
「泥酔しながら愚痴るのはいつもの事ですけど、昨日の愚痴はなんというか……」
 また、ふふっと笑う。思い出し笑いか? 昨夜の俺は何をしたんだ……。
「まるで、惚気でしたよ」
「はあっ?!」
 また声を荒げた俺を、隣室から戻って来た麻里子が一瞥する。
「ったく、うるさいわね。何デカい声出してんのよ」
「ええ、昨日の和仁君の惚気話です。ご馳走様でした、って話を」
「ああ、激しく同意。ったく、聞いてられやしなかったわよね。ぎゃーぎゃー文句言いながらも、話題は全部あの人(・・・)の事ばっかりで。あんたって、ほんと飲むと本音が出るわよね」
「――っつ!!」
「早く認めりゃいいのに。楽になるわよ、ねぇ」
「ええ、同感です」
「何がだっ!!」
 2人揃って俺を見下ろしながら腕組みするな! ただでさえも厄介な単体がタッグを組むと、ますます手に負えなくなる、まったく、ほんとにこの2人はいいコンビというかなんというか……。
「ああ、もう。俺の話はいいよ! で、2人はいつ籍入れる訳?」
「……逃げたわね」
 麻里子が思いきり眉間にしわを寄せた。2人が公私ともにいいパートナーである事は周知の事実なのだが、取締役である立石さんの父親は諸手を挙げて賛成という訳ではないらしい。まあ、古いタイプの人みたいだから、『社長の大切なお嬢さんに手を付けた愚息』的な扱いらしい。いいじゃんそんなの、当人同士の問題だろ、と思うけど、まあそれこそ俺が口出しする問題でもないし。
「私達の事は別にいいのよ、形式に拘る必要なんかないし。お互いの気持ちの問題でしょ」
 麻里子の言葉に、立石さんはちょっとさみしそうにうなずいた。本音としては祝福してもらいたいんだろうな、もちろん麻里子も……。
 2人の左手の薬指には、シンプルなプラチナの指輪が光っている。何気なくそれを見つめていた俺に、麻里子のため息が降ってきた。
「ったく、人の心配してる暇あったら、もっと自分の事考えなさいよ」
「……うるせぇ」
「で、和仁、今日の予定は?」
「……夕方から店舗指導、という名のていのいいヘルプ要員。……ったく、せっかく久しぶりに飲んだ後の土曜にゆっくり休めると思ったのに、人使いが荒い上司が……っ……」
 俺のその言葉に、2人はまたにやりと笑った。
「ま、少しうちでゆっくりしていっていいわよ。悪いけど私達は仕事があるから。立石、瀬川さんとの商談、15時に変更ね」
「了解しました。その前に私は空港まで荷物を取りに行ってきます」
「よろしくね」
 俺を残して隣室の事務所へと戻っていく2人の後姿は、既に社長と副社長の顔だ。
 お互いの気持ち……。
 正直自分の気持ちすらわからないのに、あの人の気持ちなんかわかる訳がない。これからどうするのか、どうしたいのか、どうして欲しいのか……。俺はコーヒーカップを掌で包んだまま、また大きなため息をついていた。








                                             更新日:
2012/03/27(火)