第1章 西の姉弟、魔都へ〈8〉
 
 階下で兄・クリスが不敵な笑みを浮かべていた頃、弟・アンジェは自室のベッドで、くしゅんとくしゃみをした。
「ああ、もうアンジェ様。だから風邪ひきますよって言ったじゃないですか〜」
 アンジェの金髪から滴り落ちる水滴を丁寧にタオルで拭き取りながら、道治は幼き主の頭に拳を当てた。とはいえ、本当に軽く、置いた程度。日頃からスキンシップ過剰気味のアンジェと道治にとっては、ごく普通の仕草だ。
「ちが〜う! 絶対兄貴がオレの悪口言ってるに決まってる! ったく、人の事猫かぶりとか言うけどさ、兄貴だって二重人格者じゃん・・・」
 ぶつぶつと文句を言いながらTシャツと短パンに着替えるアンジェを苦笑いで見つめる道治。その服装は、スカイブルーのストライプのクレリックシャツにダークグレイのスラックス姿、一見するとクールビズのサラリーマン風ではあるが・・・。
「ところでみっちー、それどこで買った?」
 大きな瞳を輝かせ、アンジェが道治のエプロンを引っ張った。185センチ近い彼には不似合いな純白フリフリのメイドエプロン。明らかに選択がおかしい。
「あ、これですか? 2日かかりました」
「マジで?! みっちーが作ったの?」
 ふふん、と自慢げに鼻を鳴らす道治。アンジェは羨ましそうな物欲しそうな目で道治を見つめた。
「もちろんアンジェ様の分も作りましたよ」
「ぃやったぁ〜! みっちー、愛してるぜっ」
 道治に抱きつくアンジェ。道治もまんざらではなさそうにアンジェをハグする。道治は執事である伊達家に生まれたが、事務や経理や使用人の取り仕切りといった仕事を嫌い、料理や庭いじりや簡単な修繕、果ては裁縫にまで精を出す変り種である。忠実で生真面目な兄・智治とは正反対の、ハイテンションでいい加減なキャラだが、それでもアンジェとは非常に馬が合うようだ。そんな二人の耳にココン、とノックの音が聞こえ、わざとらしい咳払いが聞こえた。開け放ったドアの方に目をやると、クリスが何ともいえない複雑な表情で二人を見つめ、その背後には苦い顔をした智治が立っていた。
「・・・何をしているんですか、君達は・・・」
「あら、クリスお兄ちゃんったら妬いてるの?」
 くすっと笑いながら小首をかしげるアンジェだが、その声のトーンは明らかに低い。自分をからかう弟を見つめ、クリスは腕組みをしながらそのきれいな顔を歪ませた。
「・・・失礼致します。道治、夕食の用意はどうしました?」
「あ、いけね、途中だった」
 そう言うと長身のメイドエプロン男はバタバタとアンジェの着ていたバスローブやタオルを手にし、ドアへと向かった。部屋を出る直前振り向く。
「アンジェ様、夕食が済んだら持ってきますから着てみて下さいね」
「もっちろん!」
 アンジェの満面の笑みに道治も破顔する。ぺこりと一礼して、バタバタと駆け出す。その慌しい弟の様子に、智治はさらに苦虫を噛み潰したような顔になる。
「静かに」
 決して大きな声ではないが、きつめの口調でびしっと言い放つ智治に、しかし道治はまったく動じる様子もなかった。
「あ、アンジェ様! 今日はアンジェ様の大好きな小エビのクリームパスタですよ〜ん」
 廊下から聞こえた道治の声に、アンジェはと歓喜の声をあげた。そんな弟組の言動に、兄組は盛大なため息をついた。
「・・・証二郎坊ちゃま、もう少し道治と距離をとって頂かなければ、他の者に示しがつきません」
「別にいいだろ。他の皆だってオレが生まれた頃からいる者ばっかりだし。それより、伊達ぇ! そっちの名前で呼ぶなって何度も言ってるだろっ!」
「申し訳ありません、坊ちゃま」
「坊ちゃまも却下!」
 唇をとがらせて真っ赤になって怒るアンジェのルックスは、どこからどう見ても可憐な少女なのだが、ベッドに胡坐をかいている上、言葉遣いは乱暴で、いかにも思春期の男子のものだ。そんな弟の姿に、クリスはわざとらしく肩をすくめた。
「いやですね、この子は。本村家の男子の名前には、必ず一郎・二郎をつける習わしなんですよ。僕は気に入ってるんですけどねぇ」
「そりゃ、兄貴は誠一郎なんてまだマシだからじゃん」
「そうですか? 僕は証二郎の方がかっこいいと思いますけど」
「あ〜、もう名前はどうでもいいからっ!」
「どうでもよくはないでしょう! お祖父様につけて頂いた大切な名前ですよ。それに我が本村家は遡れば戦国の世から・・・」
「だあっ! 兄貴の本村家講釈は聞き飽きたっ!!」
 次の刹那、クリスの見目麗しい顔めがけて、アンジェの枕が飛んでくる。彼はすんでのところでそれを交わし、背後の智治がそれを受け止めた。アンジェはベッドから飛び下り二人のそばに走り寄ると、智治から枕を奪取し、二人を部屋から追い出しにかかる。
「こら、アンジェ、話はまだ・・・」
 その細い身体のどこにそんな力があるのか、アンジェはクリスと智治を無理矢理廊下に押しやった。
「べぇ〜だ!」
 ドアが閉まる瞬間二人が見たのは、くりくりの大きな目元を思いきり人差し指で引き下げ、あかんべをするアンジェの姿だった。
「・・・はあ・・・」
 がっくりと肩を落として、クリスは成層圏まで届きそうな大きなため息をついた。
「アンジェ、明日水無月の姉弟が学園に来るそうですよ」
 ドア越しにそう語りかけると、中のアンジェの気が一瞬だけ揺らいだのをクリスは見逃さなかった。
「僕も明日復学の手続きに行きます。君も一緒にどうですか?」
「・・・オレは行かない・・・」
「えー、つまらないなぁ。僕一人じゃ寂しいからアンジェも一緒に行きましょうよ」
「――っ、ウソばっか言うな! 一人で行って来いっ!」
 バンッ、と扉の向こうで何かがぶつかった音がした。たぶんまたアンジェが枕を投げたのだろう。クリスは小さく「そうですか」と言うと歩き出した。
「・・・いいんですか、若様。証二郎坊ちゃまの事ですから、後々色々と・・・」
 言いづらそうな表情の智治を振り返り、クリスは苦笑する。アンジェの気分屋で天邪鬼な性格は皆が愛し、しかし手を焼いている所だ。
「大丈夫、明日になったら絶対ついて行くって言うよ。いや、アンジェの事だから一人で行くかもね。まったく、ほんとにわがままな姫なんだから・・・」
 そう言いながら階段を下りていくクリスだが、誰よりも彼自身が弟に甘いという事を智治は熟知している。智治は微笑を浮かべながらまだ年若い主の後を追いかけた。



     ※   ※   ※   ※   ※



「・・・どこだ、ここ・・・?」
 深い霧に包まれているように、視界が全くきかない。自分がどこにいるのかさえもわからない。足元はまるで雲の上でも歩いているかのような、不確かな感触。
「――っ!」
 不意にぐしゃり、と音がした。生暖かい何かを踏みつけてしまったようだ。当然のようにそこに目をやると・・・。
「――!!」
 恐怖と驚愕に声も出ない。途端、視界がぱっと開けた。周囲には圧倒的な朱色、、そして鈍い赤。
「・・・た、頼む・・・あの子を・・・」
 足の下には、その身を真っ赤に染めた男。苦悶の表情を浮かべ、自分の足首に触れる。
「ひっ・・・!」
 その手のあまりの冷たさに、バランスを崩して尻もちをついて倒れてしまう。見上げた空は朱色、無数の鳥居が回廊になって自分を見下ろしている。
「・・・あ、あの子を・・・」
「・・・大丈夫だ。あの子は無事だ、心配するな」
 不意に頭上から声が降ってくる。聞き覚えのある声。誰だ?
 必死の形相の男は、その言葉にふと表情をやわらげる。
「・・・様、頼みます。あの子、いえ二人を・・・」
 男が名前を呼ぶが、聞き取れない。不意にふわりと体が浮き上がり、立たされる。ふらふらとよろめく自分を支え、その声の主は自分を見下ろした。
「・・・る? 昴流?!」



 びくん、と身体を震わせ、昴流は跳ね起きた。嫌な汗がじっとりとパジャマ代わりのTシャツを濡らしていた。
「・・・・・・ね、姉ちゃん?」
「おい、昴流っ! 大丈夫か?」
 姉の静流が心配そうな表情で自分を見つめていた。しかし、周囲は見覚えのない殺風景な部屋だ。
「・・・ゆ、夢? あれ? ここ、どこ?」
 未だ虚ろな瞳で周囲を見回す弟に喝を入れるように、静流はぴしっとその額を指で弾いた。
「いでっ! 何すんだ、姉ちゃんっ!」
「お前が寝ぼけてるからだ」
「だからってデコピンすっか、フツー」
「ここどこ、じゃないだろう。今日から東京、ここはお前の新しい部屋」
「・・・ああ、そうか・・・」
 ふう、と大きなため息をつく弟の姿に、静流は首をかしげる。寝つきの悪い静流と違い、昴流はどこでもすぐ眠れるし、寝起きも悪くない。いつもなら自分が起こされているのに。いくら初めての東京、新生活初日とはいえ、彼らしくない。
「お前、大丈夫か? かなりうなされていたぞ」
「ん〜、なんか気持ち悪い・・・」
 夢なのに、夢のはずなのになぜかリアルな感覚。ふと足首に目をやってみるが、当然の事ながら手形も血糊もついている訳がない。昴流は安心したように軽く息を吐いた。押し黙った弟の様子を見た静流は、一言さらりと言い放った。
「ここで吐くなよ」
 弟を心配しつつも発言は冷静というか酷いというか。しかし、それがとても彼女らしくて昴流は苦笑いする。
「吐かねぇよ。なんか千本鳥居みたいな所で血まみれの男に足首掴まれる夢見た」
「――!」
 刹那、静流の顔色が変わった、ように見えた。しかし、それはたった一瞬だけで、すぐいつもの不機嫌そうな無愛想な表情に戻ってしまった。
「ただの夢だよ。あまりの環境の変化に、流石のお前の脳みそもついてこれなかったんだろ」
「あ、ひっで〜」
 抗議する昴流の顔めがけて、静流はタオルを投げてよこした。
「ほら、シャワー浴びて来い。今日は学園の理事長に会いに行くんだから遅刻できないからな」
「へいへ〜い」
 そう返事をして昴流は部屋を出て行った。弟の後姿を見送り、静流は大きなため息をつく。
「・・・お父様の予感的中か・・・」
 千本鳥居、血まみれの男。二つのキーワードに思い当たる節があって、静流は廊下に出る。バスルームからシャワーの音が聞こえてきたのを確認して、静流は自室に入ると携帯電話を操作した。
「もしもし、お早うございます、お父様」
『お早う。どうした、静流?』
「ちょっと昴流が気になる事を・・・。千本鳥居で血まみれの男に足を掴まれる夢を見たと・・・」
 回線の向こうで父・史彦が息を呑んだのが静流にもわかった。
『・・・そうか。・・・静流』
「は、はいっ」
 いつもより落ちついた口調と緊張感の漂う父の声音に、静流は無意識で背筋を伸ばした。
『・・・今までの≪狩り≫などこれからに比べれば遊びのようなものだろう。充分気をつけなさい』
「はい、わかりました」
『また何かあったらすぐ連絡しなさい』
「はい」
 電話を切り、静流はまた深いため息を一つ、どさりと畳んだ布団の上に腰を下ろした。
 八年前に伏見稲荷で起きた『事件』。その日、祖父・崇史は本村家の先代当主との会談の席に、なぜか昴流を伴ったという。そして、帰って来た昴流は原因不明の高熱で生死の淵を彷徨い、目覚めた時には記憶がぽっかりと欠落していた。さらにその後本村家の先代は東京に戻り急逝したという。
「・・・わからない事だらけだ・・・」
 その日に何が起こったかについて崇史は一切を語らなかった。父・史彦もその件に触れる事を極力避けていた。崇史の前では禁句となっていた『事件』について、静流は史彦の言葉を思い出した。
『・・・静流、あの日何があったのか、父上は口を噤んでいる。しかし、上京するからには今後避けては通れないだろう。昴流と本村家が大きく関わったという事だけは確実だから・・・。あの子が失った記憶を取り戻し、何かが起こる可能性も否定できない・・・。静流、昴流を頼むぞ・・・』
 上京が決まって電話で話した時の、本来は明るく楽観的な性格の父・史彦にしては重々しく真剣な口調の言葉が耳に残っている。
「・・・気が重いな・・・」
 とはいえ自分達姉弟が動くしかないのはわかっている。大きな荒波が目の前に迫っている、呑まれてしまわないようにしなければ・・・。
 静流は布団を押入れにしまうと、真新しい制服に袖を通して自室を後にする。リビングに行くと、すでに昴流がソファーであぐらをかいて牛乳を飲んでいた。彼も真新しい制服に身を包んでいる。
 二人が編入する私立育愛学園は、良家の子女ばかりが集うやや敷居の高い学校ではあるが、文武両道をモットーとし、最高学府への合格者も多く輩出する都内でも有数の名門校だ。しかしその制服は、あくまでも現代風。男女ともグレーのブレザーに、学年ごとの色違いのチェックのスラックスとスカート。静流達は臙脂、そして昴流達は青が学年のカラーだ。
 見慣れない制服姿の姉の登場に、昴流は一瞬固まって苦笑した。
「・・・なんだ」
「ぷっ・・・だって、姉ちゃんその制服似合わねぇ・・・」
「・・・うるさい」
 不機嫌な面相で腕を組む静流。しかし、昴流の言うとおり自分で見ても似合わないと思う。京都時代の制服はシンプルで古風なセーラー服だったし、元々スカートなど制服以外でははかないから、この今時のやけに短い丈のスカートには違和感しかない。
「なんでこんなに短いんだ? 本当にこれで規定の丈なのか?」
「フツーの子はもっと短いよ。それこそパンツ見せる(・・・)くらい」
「はぁ? 信じられん・・・」
「てか、フツーの子はまずそんな仁王立ちしねぇし」
 足を肩幅に開いて立っている静流を見て、昴流はまた苦笑いをこぼした。
「悪かったな、フツーじゃなくって」
「ま、フツーじゃ務まらないけどね、俺達≪狩人≫は・・・」
「・・・なんだ、お前、楽しそうだな」
 先程の悪夢はどこへやら、やけにニヤニヤしながら一リットルパックの牛乳を飲みほす昴流。
「あっ! お前、また全部飲んだのか?! 私の分も残しておけと言ってるだろう!」
「あ〜も〜、朝から怒るなって。いいじゃん、達也にコンビニ寄ってもらえば」
「そういう問題じゃない!」
 ちょうどその時に玄関のチャイムが鳴る。隣室の達也が迎えに来たのだろう。
「ほらほら、達也も来たし。行こうぜ」
 ソファーから立ち上がり玄関に向かう昴流。静流は大きく肩を落としながら息を吐き、弟の後に続いた。






 

うお〜、また1ヶ月ぶりの更新・・・我ながらへこむわぁ・・・(>_<) そして、やっぱりご対面引き伸ばし・・・ええかげんにせいっ(爆)! ま、『予定は未定』の最たるものですな・・・、行き当たりばったり更新ですからねぇ・・・(^_^;) でも、一応は本人達の意向はくんでるつもりなので、ははは・・・。
あと、INDEXページを手直ししました。今までのままだと、今後の縦スクロールが恐ろしい事になりそうなので。それから、2の制服のくだりも少々手直し。今後もちょこちょこ直しが入りそうな予感・・・┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ〜
次はもしかすると、第2章のくくりにするかも、です。いよいよご対面となります。←本当だな?! あ、その前に、プロフィールあげときます。


更新日:
2009/06/22(月)