お医者様でも草津の湯でも……



神崎和仁(かんざきかずひと)の受難


 指示された資料を最終チェックし、プリントアウトしたデータを課長に提出出来たのは15時15分前だった。しばらく真剣な表情で資料を見つめていた課長は、用紙をぱさっと机に置くと俺を見上げる。
「OK。じゃ、各店舗にメールしてくれ」
「はい、了解です」
 軽く息を吐き、俺は胸をなでおろす。ぺこりと課長に会釈して、俺は自席に戻ろうとした。
「神崎」
「はい?」
 課長の声に振り向いた俺。それまで頬杖をついて真顔だった課長は、俺と視線が交わると不意に表情を和らげた。
「かなり見やすく出来てた。お前に頼んでよかったよ。急がせて悪かったな、ありがとう」
 そう言って破顔する。その笑顔がやけにまぶしくて、自分でも顔が赤くなってしまうのがわかる。やばい、これじゃまたこの人の思う壺だ。
「いえ、仕事ですから」
 俺はぶっきらぼうにそう言って、さっさとデスクについた。
 課長の求める仕事のレベルは高い。それにかなりきつい事も言われる。だけど、こうやってフォローし、評価してくれる。そういう所がこの人がワンマンにならず、部下にも慕われている所以なのだろう。知れば知るほど、人間的に魅力のある人物だと思う。
 ふう、と知らずため息が出る。
 ただの上司と部下としてなら、うまくやっていけると思う。だけど……。
「神崎?」
「は、はい」
 隣のデスクから声がかかって、慌てて俺はそちらを見る。佐藤尋さん、俺より4つ上だから今年33になるはずだ。しかし、小柄で童顔なので年上には見えないし、気さくな人柄なので、あまり肩肘張らずに会話が出来る人物だ。去年までは店舗責任者として現場にいたが、高瀬課長が営業企画部に引っ張ったらしい。
「さっき『実験室』から電話あったぞ。本並(ほんなみ)君がお呼びだそうだ」
「……マジすか」
「ははは、神崎、気に入られちゃったみたいだね、本並君に」
「……参ったな、俺、あの人苦手なんすよね」
「ある意味この会社で一番の男前だからね、彼女。建前とか言い訳とか大嫌いだし。彼女を論破出来るのは高瀬課長ぐらいだろ」
「ですね」
 俺はまたため息をもらした。本並冴子(さえこ)、商品開発部主任。その強気で高圧的な雰囲気から、裏では『実験室の女王様』と呼ばれている。入社早々の初対面での新商品プレゼンで、結構言いたい放題言った俺だったが、それが逆に彼女のお気に召したらしい。何かと呼びつけられては味見・意見を求められている状況だ。
「15時までは空かないからって伝えておいたから。メール送信して、一服してから行って来れば?」
「流石尋さん、ありがとうございます」
 左腕の時計に目をやると、14時50分。全店舗にメールを流しても、喫煙室で一服していく余裕があった。俺は尋さんの配慮に感謝して深々と頭を下げると、早速メールソフトを起動した。



「失礼しまーす」
「お、来たわね、神崎。待ちかねたわよ」
 俺が商品開発部のキッチンに入ると、スーツの上に白衣を羽織った女性がレードルを持ったままこちらを向いた。開発の人間が着ているのは白衣といってもコック服ではなく、医者か化学の教師のようなやつだ。ここが別名『実験室』と呼ばれている所以らしい。
「ん? あんた吸ってきたでしょ。ちゃんと歯磨いてよ」
 くんくんと鼻を鳴らした本並主任。俺が喫煙室から来た事はお見通しだったようだ。
「はいはい、かしこまりました」
「はい、は一回!」
 なぜか既にここには俺の歯ブラシがある。ていうか、本並主任が勝手に買ってきて置いたのだが。歯磨き粉をつけると味がわからなくなるから、塩で磨け、という言いつけも守っている。L5で歯を磨き終えて、俺はコンロの前の本並主任の隣へ移動した。
「今回は何ですか?」
「ん、冬のスープパスタの試作。なんかいまいち味にピントが合わなくて。ちょっと神崎の意見を聞こうかなと思ってね」
「遠慮しませんよ」
「アホ、何のためにあんた呼んだと思ってんの」
 本並主任はにやりと笑った。

 結局約2時間、本並主任に付き合わされた。
「ああ、もう上がり時間じゃないっすか」
「あら、もう17時過ぎたんだ? じゃ、今日はこのぐらいで勘弁してあげるわ」
「俺だって企画部の仕事あるんすからね」
「煙草、行くわよ」
 俺の言葉を聞いているのかいないのか、本並主任はさっさと実験室を出て喫煙室に向かった。ったく、なんで俺の周りにはこういう唯我独尊でマイペースの人ばかりいるんだ……。
 喫煙室に入ると、本並主任はセブンスター・ライトに火をつけた。ポンポンと隣の椅子の座面を叩き、俺を促す。俺は失礼します、と言って隣に腰を下ろす。俺がポケットからマイルドセブン・スーパーライトを出すと、彼女は咥え煙草のまま、さっとジッポーの火を差し出した。まったく、どんだけ男前なんだこの人は。
「神崎、あんたマジで開発に来ない?」
「またっすか? そのお話は前もお断りしたでしょ」
「うちのやつら、揃いも揃ってヘッポコなのよねぇ。あんたぐらいの舌の持ち主いないから、あたしも張り合いなくってさぁ」
「ヘッポコって……。いや、皆さん十分舌も肥えてるし、勉強してらっしゃると思いますけど」
 あんたの舌が化け物なんだ、という本音を俺は飲み込む。
「そぉお? 企画なんて、あの仕事馬鹿に任せとけばいいのよ」
「……仕事馬鹿って……、高瀬課長の事ですか」
 わかってはいるが一応聞いてみる。
「他に誰がいるってぇのよ」
「……同期、でしたよね、本並主任と課長」
「不本意ながらね。4人いた同期も残すはあいつ1人よ。ったく、つまんないったらありゃしない」
「そういえば、他の同期の方はみんな女性だったって聞きましたけど」
「神崎、あんた何が言いたいの?」
 ぎろりと俺を睨む本並主任。目がマジだ、怖すぎる。いくら顔に似合わず結構な毒舌家だと言われている俺でも、他の同期が皆寿退社した、なんて話題をこの人に振れるはずがない。誰かが喫煙室のドアを開けた音に気付きながらも、俺は本並主任をやり過ごすように携帯をチェックし始めた。
「ちっ。あんたが高瀬の下にいるってのが、ますます腹立たしいわ……げっ」
 隣で紫煙を吐いていた本並主任が、珍しく焦った様子だったので、俺は携帯の画面から顔を上げる。そこには仏頂面で腕組みして俺たち2人を見下ろす仕事馬鹿、もとい高瀬課長の姿があった。
「……本並、お前いい加減にしろよ」
「はあ? 何がぁ?」
 この2人が犬猿の仲である事は社内で知らない者はいない。つーか、根本は似た者同士、つまりは同族嫌悪なんじゃねぇの、と思うが、それを言ってもこの2人は全否定するだろうから言わないでおくけど。しかし、本並主任は高瀬課長に対して、いつものらりくらりと受け答えする。以前なんでそうするのか聞いた所、『そうした方が気が紛れるから』なんて答えが返ってきた。それが高瀬課長をますますイライラさせるんだってぇのに……。
「神崎は企画の人間なんだぞ。そうホイホイ簡単に呼びつけるな。ていうか、ちゃんと俺を通せ」
「へいへい、わかりましたわよ、高瀬営業企画課長様」
 そう言うと、本並主任は煙草をもみ消して立ち上がった。
「神崎、助かったよ。またよろしくね(・・・・・・・)
 そう俺に言ってウインクすると、本並主任は高瀬課長を押しのけるようにして喫煙室を出て行った。課長が思いっきり舌打ちしている。俺はいたたまれない空気に苛まれながら、携帯の画面に目を落とした瞬間だった。携帯が鳴る。画面には『小早川(こばやかわ)麻里子(まりこ)』の文字。
「麻里子?」
 思わず漏らした俺の呟きに、高瀬課長がまた舌打ちした。
「うるさい、早く出ろ」
「あ、はい、すみません。……もしもし?」
 そう言うと俺は電話に出る。人ごみからかけているのか、後ろがざわざわとうるさい。課長は仏頂面のまま俺の隣に腰を下ろし、煙草に火をつけた。
『か〜ずぅ〜』
 回線の向こうからは、慣れ親しんだ声。麻里子は幼稚園からの腐れ縁だ。
「おう」
『今成田。やっと帰って来たわよ』
「お疲れ。今回はどこだっけ?」
『南アフリカ。いいタイガーズアイが手に入ったから、あんたにお土産。呑むわよ』
「はいはい、わかってるよ。店はどうする?」
『ん〜、あんたに任せるわ』
「おっけ。いつにする?」
『明日』
「明日かよ! 俺にも都合ってもんがなぁ」
『あら、デートする相手でも出来たの?』
 そんな麻里子の言葉に俺はぐぬぬ、と唸った。出来たような出来てないような……。俺はちらと横目で高瀬課長を見やると、相変わらず眉間に深い縦皺を寄せながら紫煙を吐いていた。いや、待て。違うだろ。課長とはデートとかそういうのじゃなく、ただ単に――。
『カズ? どうかした?』
 しばらく沈黙していた俺に、麻里子が声をかける。顔は見えないが、こんな時のアイツは絶対半笑いだ。『どうかした?』なんて疑問形だが、俺の口調や沈黙具合から何かあった事ぐらい容易に想像できているだろう。
「悪い、なんでもない。わかった、店決めたらメールするから」
『うん、よろしく。じゃね!』
「ああ、明日な」
 そう言って携帯を切る。隣の高瀬課長からは何とも言えないピリピリした雰囲気が漂ってきて、俺はそそくさと立ち上がろうとした。
「小早川か?」
「あ、はい」
「しばらく会ってないが、あの小生意気な性格は変わってないんだろうな、アイツは」
 麻里子は高校までずっと部活も一緒だったから、もちろん高瀬課長とも面識がある。とはいえ高校時代、なぜか課長は麻里子を避けていたようで、あまり会話をしているのを見た事はなかった。
「……ええ、もちろん。てか、課長、麻里子の事嫌いでしたか?」
「別に嫌いとかいう訳じゃない。ただ単に苦手なだけだ」
「ぷっ……」
 課長から『苦手』なんて言葉が聞けるとは思えなくて、俺は思わず吹き出した。
「なんだ」
「いえ、すみません」
「どうせ呑みに行くなら先月オープンした『ハンゾウ』チェックして来い」
 課長は仏頂面のまま俺にそう言う。俺は苦笑しながらうなずいた。
「はい、了解です、高瀬課長」





                                             更新日:
2011/12/01(木)